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平成25年11月10日(日)

第8回宇和島じゃこ天カーニバルに行きました

 

宇和島市民の皆さんが心から楽しんでおられました。じゃこてんカーニバルは宇和島市民の皆様の底力が発揮されたものと思います。なぜならこれは0予算で始まったものそれを第8回まで続けられました。島原前理事長さんが第2回以降これからが大変だと常々おっしゃられておりました。関係各位、市民の皆様の並々ならぬご尽力が実を結ばれたものと思います。

 

   宇和島の祭り男が揃い踏み

笑いがあふれてます

第1回宇和島じゃこてんカーニバルが開催されるまで

愛媛県合唱連盟主催の四国合唱コンクールの運営をお手伝いしていた私の妻が、伊予銀行合唱団のコンサート(宇和島市南予文化会館)で、地方局がじゃこてんの歌を歌わせて頂いた時のお礼を述べているのを側で聞いていた玉井恭介理事(当時)が、「楽譜はないか」と妻に訊ねられた。妻が「宇和島地方局にあるかもしれない。主人がじゃこてんで地域興しを考えていると聞いたことがある」と答えたところ、じゃこてんの歌で地域の活性化を考えていた玉井さんは直ちに私のところを訪ねて来られ、「じゃこてんで地域興しを考えている、楽譜はあるか」と話された。じゃこてんの歌は宇和島ユースホステル支配人浅田康路さんの作詞、作曲であるが、楽譜がなかったため、必要になると思い私の秘書であった芝(旧姓、現山内)さんに「だれか楽譜を創ってくれる方はいないでしょうか。」とお願いしたところたまたま彼女の友人に音楽に携わっている女性がおりボランテイアで完成して頂いていた。また、この楽譜は宇和島地方局職員有志が、一年前、南予文化会館で開催の、伊予銀行合唱団による定期演奏会の、貴重な時間を割いて頂き地方局山内係長(現御荘林業課副参事)の指揮によるじゃこてんの歌を発表した時のものでもある。多分歌がステージで合唱されたのはこれが初めてではないかと自負している。「あります。宇和島商店街の長いアーケードを使って、歌い、踊り、ぜひやりましょう。協力していただける団体の紹介をお願いします。」と答えた。

私はこのイベントは成功すると確信していた。なぜなら、一年間の宇和島生活で、この地域の持つ底知れぬ潜在能力を実感していたし、これらの人材を活用してのイベントのイメージは、私の頭の中にすでに存在していた。このチャンスを逃してはニ度と機会は巡ってこない。実行あるのみ、と思った私は、当時、南予地域活性化現地対策本部の実働部隊の実質的責任者であった井野(現南予地方局総務県民課長)課長補佐を呼び、口頭でゼロ予算での計画案を説明し、島原蒲鉾組合理事長(当時)にお越し頂くよう連絡を依頼した。この時8月末、イベント開催日よりわずか2カ月前であった。

 

2005年11月23日 南予文化会館

(つづく)

井野課長補佐は、私が宇和島地方局に赴任してから1年間、南予地域の活性化の中心となって、活動してもらっていた。彼は、私の無理とも言える数々の指示を、これまで全力を尽くしてこなしてくれていた。彼の上席には課長、部長が存在する。階層組織である公務員の中では、それらの方々の理解を得ながら、私の直接の指示を実行していくのは、そう簡単なことではない。その彼がその後ずっとじゃこてんカーニバルの実現を目指し、私の片腕となって活動してくれることとなる。後から聞いた話では、彼が余りにも「宇和島じゃこてん、宇和島じゃこてん」と言うものだから、奥様が「どうかいい加減やめて欲しい」と懇願されていたと、お聞きした。知らなかったのだが、実は彼の奥様の実家は、八幡浜市の中心街でも有名な、八幡浜じゃこてんの販売店であった。私のこのやり方は、組織社会では余り誉められたものではないかも知れない。また、にがにがしく思われた方もおられると思う。しかし、この方法を保健福祉の統合、市町村合併、リサイクル施設の愛媛県の誘致にも取っていた。新しいことに取り組むには、不安感と周りからのプレッシャーがものすごい。これに立ち向かえるのは、単に頭のよさとか地位とか肩書きとか一緒に酒を飲んだとかは、別のところにあると実感していた。

また、当然失敗は許されない。周囲に大変な迷惑をかける。単に頭を下げ「ごめんなさい」ではすまされないからだ。だから、こういう時に私にとっての背水の陣は、この方法であった。

これを身につけたのは環境衛生係長の時代である。料理飲食、旅館、ホテル、理容、美容組合など、サービス産業の方々とお付き合いした時である。保身のため公務員はどうしても責任をとらされないように建前論のやりとりに成り勝ちになる。私が建前論で格好良く話せば話すほど、業界との関係がどうもギクシャクする。悩んでいた私は業界のある方の言葉で目が覚める。「私たちは、補助金を潤沢に頂いているわけではない。腕一本で生きているのだ」と。

このような方々に建前論で話しても、すぐ正体はばれてしまう失礼だ。それからは目が覚め、積極的に本音で話すようにしたところ、少しづつ円滑に進むようになった。また、この係長時代に、新しい補助金制度を創ろうとしたがどうしても旨く行かず、四面疎歌に陥ったことがある。そのとき最後まで支えてくれたのは、私の若いNとSの2人の係員であった。もしあの時、彼らの最後までの、献身的な支えがなければ、それからの私の県庁生活は、全く別のものになったであろう。またこの時代、宇和島にかどやの清家ありとも耳に伝わって来ていた。その清家会長と14年後運命的なお付き合いをすることになろうとは当時知るよしもない。

保健福祉の統合、市町村合併、リサイクル施設の誘致に携わったが、その時々に不思議に私を本気で支えてくれる若い人々が、現れてきた。南予地域活性化、この実行時に、その役割を果たしてくれた一人が、井野課長補佐である。私は決して面倒見が良くはない。恩返しを彼らに出来ているわけではない。今は、自らの力で彼らが生きるよう願い心から感謝をするしかない。

とにもかく、私の県庁時代の行動の原点は、この環境衛生係長時代であった。

この経験を重ねたお陰で、新たなことに取り組むに当たって、信頼できるか、頼りにできる方かどうか、直感的に分かるようになったと思う。

幸運なことに心から信頼でき頼りにしても良いと心から思ったこのお一人がまさに島原前理事長さんであった。

 

  (つづく)

背水の陣を敷いた時の仕事遂行のシステムは、南予地域活性化現地対策本部の業務推進の時が初めてではない。私は常に何か新しいことに取り組みたいと思っていた。そうした時に不思議にすばらしい若い人材が現れた。単に頭脳がいいだけでなく公務員がもっとも不得意とするチャレンジ出来る人材だ。その一人がO主事(当時)だ。彼は私が初めて市町村係長として赴任した時に係員となった。O主事の凄さは私がやりたい新たな取り組みをいとも簡単に成し遂げてくれることだ。

選挙投開票日には沢山の人々が集合し朝早くから、夜遅くまで集計事務に携わっていた。それも何人もの人々が電卓でチェックしながら集計事務をする。当時はよく選挙訴訟があり、本当に神経をすり減らして緊張しながらの業務だった。そこでこれをパソコンで集計出来ないものかと彼に持ちかけた。パソコンのソフトは当然まだWINDOWSではなくLANPLANである。パソコンなどほとんどなじみのない海のものとも山のものともわからない時代だから周りは失敗したらと不安のあまり、拒絶の状態である。票の按分をどのようにプログラミングするかそこが一番の課題だと私は思っていた。当時は県本庁に権限が集中していた時代、出先機関でこのようなことをするというのは本当に勇気がいる。それでもなんとか周りの同意を得て実施することとなった。投開票当日そのプログラミングで集計が始まった。予想以上にスムーズに投開票の集計が終了した。多分従来の5分の1程度の力で出来たと思う。おっかなびっくりで今まで否定的であった周囲の人々もこれは良い今後も是非これでやろうとなった。そして彼が作ったプログラミングは県本庁、県下の地方局で使われるようになる。

 そして、次は市町村決算統計である。市町村財政の決算状況をとりまとめる業務で交付税算定の基礎となる。これが大変で神業的なやり方で朝から夜遅くまで電卓をたたいていた。

これを、パソコンでできないかと彼に持ちかけた。すると、O主事はいとも簡単にプログラミングをした。そして従来の業務が5分の1程度に縮減できた。あの電卓での困難きわまりない集計があっという間に目前の白黒画面でデイスプレイした時には感動を通り越し慄然とした。また、これも県本庁、各地方局で取り入れられた。

そして次は選挙啓発である。当時民俗芸能が盛んであったので、正月選挙でめでたいことでもあり獅子舞などで啓発をしよう、場所は人が集まるまつ地下タウンから出発しようと彼に持ちかけた。

彼もやりましょうとなったが実はまつ地下タウンではこのようなパフォーマンスは今まで許可されたことがないとのことで実現は大変困難であったらしい。しかしまたもや成し遂げる。正月の日に重信の獅子が迫力満点で高らかに舞う姿を見た時は胸が熱くなった。

そして17年後市町村課でまた彼と出会う。彼は係長になっていた。当時の大きな事業は市町村合併と衆参同日選挙の電算化だった。

衆参同日選挙が急遽決定し準備に追われていたが私は市町村合併関係で外に出ることが多く選挙関係は任せていた。

そのような状況の中、O係長に活性化のため今治タオルを活用して県庁前への横断幕の掲出は出来ないかと持ちかけた。一番心配なのはタオルが雨の日だと水分を吸収し重たくなりずり落ちる懸念があるとのことだ。彼は今治の繊維試験場に何度も足を運びこれを見事に解決した。

そして心配していたことが現実に起こる。電算化への対応だ。当時まだ県庁はワープロの時代でパソコンへの認識がない。私は保健福祉の統合の時人事に携わったが全員異動するという大幅人事にはパソコンしかないと思い独力でイクセルを学びそれからずっとパソコンを使っていた。パソコンに不具合はつきものだ。なんども実証しなければ安心して使えない。ボタンを一つ押せばすべてが自動的に出来るわけではないのだ。それで、なんども外出する前にインプットからアウトプットまで実証するようにといっていたのにそれをしていなかったのだ。結果、投開票3日前に突然同日選挙に方々で使われるためプリンターがないと報告をしてきた。困った私はO係長に相談する。その夜私が対策を考え翌日彼に言ったことは偶然彼の自身の考えと一致した。県庁中からプリンターを調達することだ。それはO係長には管財課の経験がある、彼なら対応してくれると思ったからだ。そして見事に対応してくれて事なきを得た。

このようなことでは所掌事務は理解していても投開票システムそのものはまだ十分理解できていないな、と危惧を持った。人間なら間違えば自主的に正せるが、電算はそうはいかない。システムエラーが生じれば人間である誰かか迂回策を指示しなければ取り返しのつかないことになる。それでO係長に当日は私の横にいてシステム全体と現状の流れを私と同時に頭にいれてもらうように頼んだ。これが大きな危機を救う。投開票事務が始まりしばらくしてどこかの市町村に問題が発生した。それに対する記者の問いかけに私が直接電話口に出ざるを得なくなった。更に問題が起きた町村の集計事務が滞ったことで県本庁のシステムにも混乱が生じていた。私が電話に出ている間O係長はこれに適切に対応しシステムダウンを危機一髪で回避した。私は九死に一生を得た。

彼のすごさはこれらの指示をいつもいとも簡単に私の意図以上に成し遂げてくれたことだ。そのときの私の指示はいずれの時も10分にも満たない短いものだ。それで理解してもらえる。私にとって不毛な反対のための反対の議論はする必要はなくこれほど心強いものはなかった。

実は、私がじゃこ天カーニバル遂行に当たっての宇和島の人々に対するお願いもシンプルで短時間であった。それを特別な議論もなく瞬時に理解され引き受けていただけるほど皆さんが実力者だったのだ。それでなければ2ヶ月という短期間で成功出来るわけがない。

(つづく)

(島原理事長さんはじめ多くの宇和島市の方々が松山観光港でイベント)

私たち夫婦は3月末宿舎に行くため車で宇和島に着いた。宇和島の地は初めてである。夕食の用意のためとある店舗でなにげなしにじゃこ天を購入した。そして宿舎でそれを食べたときそのおいしさに夫婦ともども驚愕した。それは今まで松山で食べていたじゃこ天と思っていた味とは全く別物であった。そのうまさの秘密はどうしてか大変興味を持った。ある日島原理事長さん(当時)が宇和島じゃこ天について語っている記事を見つけた。それで地方局にお越し頂きじゃこ天のお話をお聞きした。歴史に始まり、原料は小魚のはらんぼであることなど、穏やかな温かみのある語り口で懇切丁寧な説明を頂いた。おもしろさのあまり時間は知らぬ間に1時間を超えていた。その後和霊公園で私や地方局員の有志がじゃこ天踊りをパフォーマンスしたり、南予文化会館でのじゃこ天の歌合唱などにより親しくお付き合いをさせて頂くこととなった。

井野課長補佐の連絡によりお越し頂いた島原理事長さんはやろうという意味を込めて「薬師神専務(現理事長)組合員の皆さんに相談します」。と静かに答えられた。大変な決心であったと思われる。計画書も予算もないしかも2ヶ月ばかりの話である。しかし「是非やろう。」とのニュアンスで受け取った私は翌朝宿舎の裏、大超寺奥にある宇和島ユースホステルに浅田さんを訪ね了解を得た。島原理事長さんは、その後私が宇和島を離れ、松山観光港に勤務したときもお越し頂き経営に関して指導いただいたり、宇和島市役所の方々や多くの宇和島市民の方々とともにイベントをしていただいた。そのとき自らがじゃこ天をあげていた。「どうしてですか。」とお聞きしたところ「お客さんの反応を知るため。」と答えられた。

そしてカーニバルの第2回目以降終了すると安堵したように「終わりました。」と携帯電話に連絡を頂いた。極めつきは島原理事長さんが叙勲を受けられ全日空ホテルで祝賀会が開催された時、案内頂いた私がホテルのエスカレーターを降りた途端会場の入り口から走るように私のところへ来られご夫妻ともども挨拶に来られたことであった。

私は、恐縮するばかりであった。

これが宇和島男子である。島原理事長さんとはこういう方である。

地方局にお越し頂いた後、理事長さんはカーニバル実現に向け厚い人望と力強い指導力で成功へと導いて頂くこととなる。

 

そして、私は島原理事長、浅田さんとお話した後、井野課長補佐を呼び状況を説明するとともにかどや清家会長に協力を頂くためお越し頂くよう伝えた。

 

 

島原前理事長さんが松山観光港に来ていただいたとき、この北高架通路の活用に関してご相談したところ、上部は景観を遮りだめなら下部を利用したらとのヒントを与えて頂き、全国の観光ポスター、パンフレットを掲示・展示することを思いついた。これであればオンリーワンだ、最大時500枚を掲示した。これも0予算であるが、お陰で全国の観光に取り組む姿勢が実感出来た。集めるには際しては自治大学校の同期生、東京事務所にお世話になった。京都、奈良、岩手県など本気で取り組んでいるところは電話依頼すると翌々日までには必ず届いた。岩手県の話「ポスターを掲示していただけるところがあると言うのは大変ありがたいことです。当たり前のことです。」。長い通路であるので管理が大変であったがありがたいことに住民の方々が管理するのを手伝っていただけるようになった。ポスターの掲示の重要性は宇和島地方局で実感した。それは後ほど述べるが、じゃこ天カーニバルでは清家会長と2人で管内を車でポスターを持参して掲示いただけるような場所を探し掲示のお願いに回った。楽しい思い出だ。

(つづく)

清家会長 宇和島地方局職員

第1回じゃこ天カーニバルの

清家会長と地方局職員

かどや清家会長、現愛媛県中華料理組合副理事長、元愛媛県料理飲食等組合副理事長、宇和島、松山で飲食店を持ち、この8月には東京西麻布にも出店した。南予地域で知らない人はいない。年期の入った自転車に乗られ、私の娘に言わすと少年のようなきらきら輝く瞳が特徴だ。赴任間もないある日清家会長が私の部屋に来られ「無名会」への参加を依頼された。宇和島市の経、官、大学、マスコミ、団体などの方々からなる毎月の集まりだ。これへの参加が初めての赴任地であり、地縁、血縁もない私にとって地域、人々を知る大きなきっかけとなった。それからのお付き合いである。お越し頂いた会長に玉井さんからの話と、島原理事長、浅田さんにお願いした件をお伝えし、また、大まかな案をお話しした。引いては多くの市民の方々に参加を呼びかけたいが時間もないので直接団体のトップに依頼する、同行をお願い出来ませんか。そのとき手ぶらでは理解されないと思いますので手作りのポスターを持参し説明をしたい。図案は宇和島出身者の汽笛一声新橋の鉄道唱歌を作詞した大和田建樹さんです。当然資金のあてはありませんから0予算です。この地域には優れた皆さんがおられますから力を結集すれば絶対成功します。」。大きな事業はトップダウンだ。経験上下からあげると途中で止まり絶対上がらない。この地域のトップは必ず成し遂げて頂ける。この地域の方々は伊達藩の影響かそれぞれの人が何か得意なものを持たれている。それを活用すれば成功すると私は確信をしていた。「あの長い立派なきさいやロードを歌い、踊りましょう。」。「そうですらいな、やらんといけませんな。」と承諾を頂いた。この後清家会長さんには中心となって尽力頂くことになる。蒲鉾組合関係は長老もおられるが絶対島原理事長さんがまとめて頂けると確信をしていた。音楽関係は玉井さんがやって頂けるだろう。

そのあと、すぐに井野課長補佐、片岡係長(現南予地方局地域政策課長)、G主事を呼び状況を説明するとともに、ポスターの作成を伝えた。片岡係長、G主事は二人とも南予地域の活性化のためこの一年間献身的な働きをしてくれていた。片岡係長はすでに井野課長補佐から私の考えを聞いていたのであろう。「0予算ですか。予算がないと事業は出来ないでしょう。」と詰め寄って来た。井野課長補佐「みんなが反対しています。」私「みんなが反対するからこそオンリーワンだ。成功する。」と答えた。実際予算があるから成功するとは限らない。金を頂くことと引き替えに多くの人々の意見を聞かざるを得ず、結果当たり前のことしか出来なくなる。井野課長補佐の苦しみは良く理解出来た。彼には課長補佐の権限しかない、しかも局内全てをまとめるのだ。周りからのプレシャーは相当なものだ。私は後半年後に定年を迎える、私についていても何も得をすることはない。だからこそこれをやれる人間は地位、肩書きとは別のところにある。私が尊敬するJA南の林組合長(後の愛媛県農業協同組合中央会長)さんも特産品センター「みなみくん」を立ち上げるとき述べている。「みんなが賛成するものは成功しない。それはすでにどこかでやられていることだ。自ら燃えて人を燃やせ。」と。

図案は大和田建樹の肖像を使用する。画は教育事務所の美術の先生にお願いする。と伝えた。そして井野課長補佐に宇和島市の祭り男楠葉拓史宇和島市役所牛鬼保存会会長にお越し頂くよう伝えた。(つづく)

 

宇和島市役所牛鬼保存会会長楠葉拓史、山下丸穂牛鬼保存会名誉会長(後ほど登場頂く)が一目置く存在である。このお二人は宇和島牛鬼祭りのほか代表的な宇和島のイベントには必ず登場する。このお二人が登場すればイベントは活気づく。南予の青少年のあこがれの的となっている。知り合ったのは一年前の8月のある日楠葉さんが私の部屋を訪れた時からである。当時私の部屋は多くの方々と知り合うためオープンにしていた。それと彼が私を訪ねる気になったのは多分次のようなことからであると思う。宇和島に赴任してから2ヶ月が過ぎた頃女性職員がガイヤカーニバルへの出場依頼に来た。地域の活性化を2年計画で描いていた私はまず地域の方々に私の顔を知って頂くことだと考え様々な会議に出席をしていた。作詞作曲は宇崎竜童、振り付けはピンクレデイーの土居甫氏によるハードな踊りだが良い機会だ。それで出場を了解した。そのとき私のためにと秘書の山崎(旧姓大平)さんがたすきを創って頂いていた。そして当日旗を振りながらたすきを掛けきさいやロードを踊った。登り坂の道は思った以上にきつかったが変わった人だと印象づけることにはなった。それを見た彼は興味を持ったのであろう。彼はそのとき熱く牛鬼について語った。そして彼が書いた新聞の連載投稿記事のコピーを頂いた。そこには牛鬼に乗るために毎日体力を維持するためジョギングをすることなどが書かれていた。その後イベントがあるごとに彼の勇姿を見させて頂いた。それで何かことあれば必ず彼に援助を頼もうと思っていた。まさに時来たれりである。

そこで、彼にじゃこ天カーニバル開催計画の経緯と出場の依頼をした。ところが元気ものの彼が思いもかけず難しい顔をして「井野課長補佐が困っている。このまま続ければ大変なことになる。」と返事をした。計画書もない、しかも0予算だ、時間もない、冷静に考えればそれが公務員としての正常な考えであろう。私は彼の出場が成功のキーポイントであると考えていた。彼に当日司会をお願いしようと考えていた。イベントがいざ始まれば何があれ仕切るのは司会だ。一年間の付き合いで彼ならやれると確信していた。どうあれ私には成功へのイメージがすでに出来あがっている、彼自身もまだ気づいていないようだがこの地域には私が出来ないことが出来る多くの人々がいる。これらの方々の力をお貸し頂ければ成功間違いなし。また0予算だから承認頂く人が少なく決断実行が早くできる。

また、このカーニバルが本当に成功するには、山下丸穂牛鬼保存会名誉会長、楠葉宇和島市役所牛鬼保存会会長のダブルスタンダードに出場頂くことは必須条件だと思っていた。なぜなら、この地域には牛鬼は絶対の存在だからだ。

やりとりの結果私は彼が了解していただいたものと思っていた。

数年後笑い話となったが、どうもその後楠葉さんは清家会長を訪れたとのこと。そして会長に「四之宮さんは誰の言うことも聞かない、清家会長の言うことなら聞くと思う、思いとどまるよう言って下さい。」すると会長は「四之宮さんを助けなさい。」と一喝したそうである。こう見えても私は様々な修羅場を経験している。絶対成功すると確信出来る人以外には頼まない。

(つづく)

山下丸穂牛鬼保存会名誉会長。宇和島牛鬼の象徴、別格である。伝説的な様々なことを成し遂げている。周囲から極めて困難であると思われたが、自らの責任で先頭に立ち愛媛丸で亡くなられた方々のためハワイにおいて宇和島牛鬼で鎮魂をされた。総合庭園 山下造園を経営されている。また、長年消防団活動にも取り組まれている。高知県香南市のどろめ大会で2度の優勝。2度目は今年度だ。一升の杯を13秒6で飲み干した。1度目の優勝は8秒余りであったと言う。私が「すごいですね。」と言うと「四之宮さん、それだけでは尊敬されない、その後皆さんからのお祝いの献杯を全て受けて初めて認められる。」と。山下さんと付き合いが始まったのは宇和島市の消防団の総会であったと思う。当時消防団の副団長、そこで宇和島牛鬼の話を熱心にされたので強烈に印象に残っている。その後伝説的な存在であることを知る。じゃこ天カーニバルには絶対欠かせない存在だ。それでご自宅にお伺いし要点だけ話し牛鬼のパフォーマンスをお願いした。手には何も持っていない。口頭の説明である。するといとも簡単に「宇和島のためにやっていただけるのですね。ありがたい、力になりたい。」と即座に承諾を頂いた。多分不思議に思われるだろう。ご自身、仕事も持っておられる、牛鬼を担ぐ人々も必要だ。普通なら即答出来ない。それが出来る。私はうれしさの余り深くその時は考えなかったのだが、その後理解する。松山観光港でのイベント開催の時にもお願いに行ったがその時も「分かりました。」と即答である。観光港では理由があり休日にはイベントが制限されていたため平常日である。自らはもとより牛鬼を担ぐ方々は若い働き盛りの人々だ、休日を取らなくてはならない。経費もいる。それが即答出来るとは。山下さんは言う「助けがいるときはいつでも言って下さい。」、この山下さんの言葉は単なるお世辞のあいづうちではないのだ、山下さんの言葉は、責任を持って引き受けたとの誠そのもなのである。宇和島の活性化、牛鬼のためには心底命をかけている人からしか生まれない重みのある言葉だ。それに気づいたとき私は心底慄然とした。

今も清家会長を囲む会で中心をなしていただいている。ありがたいことである。

こういう方々にお話をするときはペーパーは不要である。瞬時に理解される。そして不毛な出来ない理論でなく成功するためにはいかにするか。それに専念していただける。私がこれから声をかけようとする方々はそういうトップの方々ばかりであった。だからこそ、成功をイメージ出来ていた。それに宇和島牛鬼の助けも得ることが出来たのだ。

(つづく)

宇和島の底力を本当に知っている人々は少ないような気がする。経済は疲弊化し、なにもないようなことが言われることが多い。多分これは宇和島の男性は寡黙で外に向かって自己アピールをするのが不得意からかも知れない。実は私も良くは知らなかった。商店街は寂れ何も無いとの言葉を信じていた。バイクに乗り始めたころ朝早く起き足摺岬などに日帰りツーリングをしていたが、丁度宇和島で朝9時過ぎになる、休憩も兼ねて朝食を食べていた。昔ながらのラーメンを食べさせて頂けるお店がその時間帯でもオープンしているので良く利用していた。宇和島には駅前以外には食事するところは何もないということがインプットされているのでこんなものかと別に疑問も抱かなかった。ところが宇和島に赴任して一変する。様々なものが存在するのだ。宇和島駅前のすぐ近くの辰野川沿いに早朝5時から開店するうどんやさんがあったりする。そこを早朝から市長さんとか商工会議所会頭さんとか市民の多くの方々が昔から利用され情報交換するコミュウニテイーの場となっている。セルフサービスだ。それと喫茶店が沢山ある。多分今松山市以外県内の市町村で商店街から歩けるところに喫茶店が存するところは少ないと思う。地方局にいた当時調べた限りでは人口当たりの喫茶店数は松山についで多かったような気がする。ただ、商店街から少し離れている。又入り口がけばけばしくなく狭い。ドアを開け入ると中は想像以上に広く趣味の良い家具が置かれていて驚かされる。喫茶店によっては朝早くから開けられており、ここも市民のコミュニテイーの場となっている。コンビニではない個人商店も多い、ホータレいわしのさしみとか新鮮な果物をおいており安価で実に美味い。お年寄りの方には便利だ。おいしい個性的なラーメン屋さんも数軒ある。お好み焼き屋さんも美味い。祭りも多い。ボーン、ボーンと音がするからなにごとかと思えば旗火の音、祭りを知らせる音である。これが頻繁にあるから驚きだ。また、それに伴いもちまきがある。私の運転手をしていただいたNさんがついたもちは美味しいと評判で方々から餅つきの声がかかるが駆けつけることを全くいとわない。ボランテイア精神が旺盛だ。方々に寺がある。クリスマスシーズンになると個人の家を電飾で飾るところもある。これは実に豪華で見れば本当に驚かされる。多分松山市の花園町の電飾に勝るとも劣らない。しかしそれを誰もPRしない。個人の楽しみで終わる。本を書かれる方も多い。様々な研究会がある。

それと女性の方々が様々な習いごとをしている、半端でない。お茶、習字、そろばん、華道、着付け、美術、舞踊、裁縫など・・・。

私の妻はお世話になっていたクリーニング屋の奥さまは両手一杯の習いごとをしている、なんでもできる方だと感心するばかりであった。

そればかりかこの奥様ラーメンまで打ち美味しいと評判のため市内の多くのお店におろしていた。娘のところに宇和島からの女性の方がお客でこられることがある。宇和島の方の習いごとの身に付けていることの多さを話すと「そんなこと当たり前と違うの。」と答えられたとのこと。

日本政策投資銀行の藻谷さんが宇和島の活性化ということで講演にこられたことがあった。世界各国の地域活性化を見ているということで大変興味を持って参加した。残念ながら多くの方々と同様宇和島には何も無い。商店街が寂れている。何も行動しないとの話になった。私は強く反論した。そのため少し座が白けて終った。ほとんどの調査にこられた方々は1-3日で駅前、商店街だけを見て終わる。なにも見ていないのだ。宇和島の真の姿は商店がから少し離れたところにある。ただ、けばけばしくしないから本当に分かりにくい。

宇和島の方々はなにも行動していないのではない。祭りなどは今ほとんどの地域で年に1回もするのがやっとだと思う。それを驚くほどにたくさん催す。それを支える人々が現に行動をしているからこそ可能なのだ。

松山観光港で4回のイベントを行った。通常日だ。勧誘したがどこの団体も申し訳程度の謝礼金では2の足を踏む。まずは、勤務を休んで行かなければならないので日当がいるから始まる。もうこれでアウトだ。しかし、このイベントには宇和島から、愛南町から、鬼北町から駆けつけて頂いた。業者の方々はお店を閉めてまで駆けつけて頂いたと言う。行動力は十分あるのである。

ただ、この地域自らは語らない。「なにもしないですね。」と尋ねれば「そうですらい。」と答える。

忘れてはならないことは、この地域はみかん、真珠、魚養殖の3度の繁栄を経験している。それは私たち東予の水田農家やサラリーマンの家庭がほとんどのところではその豊かさの時代は想像もつかない。思うに宇和島の方々はこの時代と比較されている。

県下の地域でこのような途方もない3度の豊かさは経験しているところはない。宇和島の方々の言葉を額面通り受け取ってはいけない。比較の基準が全く違うのだ。

伊達文化の影響とこの経済の豊かな時代に身に付けたものがこの地域のとてつもない奥深さに繋がっているのではないかと思う。

宇和島は奥が深い。私のこの見方も実はほんの入り口かもしれないと思っている。

この様な地域の方々だから結集さえ頂ければ成功だと確信していた。

 

ただ松山では、田中政利会長率いる離島振興協会は別格である。松山観光港のイベントに良く参加頂いた。島からの産品を販売するためには船の運送費が必要となるため難しいと思われたが皆さんの島の活性を図ろうとの熱い気持からであったと思う。

それと、遠路鬼北町のキジ鍋祭りに参加頂いたのが思い出である。鬼北町の入舩元課長さんに大変お世話になった。

瀬戸内海の島のさざえ、ヒジキは美味しいと高知県からのお客さんに言って頂いたのには嬉しかった。そう言われているそうである。たちまち完売した。最後のお客さんは観光港にもイベントで来ていただいた故元松浦鬼北町長さんであった。現在私は離島振興協会の賛助会員にならせて頂いている。

            

 

 

            

       豊かなむらづくり全国表彰(農林水産大臣表彰)

  全国地域づくり表彰(全国地域づくり推進協議会会長表彰)

  離島振興60周年功労者表彰(国土交通大臣表彰)

        

       トリプル受賞おめでとうございます。

 

(松山離島振興協会、鬼北町きじ鍋祭り参加、皆さん鬼北町に来るのは初めて、逆はあるが松山から南予にきて物産販売をするのは多分これが初めてのことだったのではないかと思う。)

宇和島市民のたくさんの方々が松山観光港に来ていただきました。

今これを書きながら改めて驚きました、これ通常の水曜日です。

イベントを経験された方なら理解されると思います。入り込み客は何人から詰められます。そもそも通常日であれば休まざるをえづ日当を支払わなければならない。費用が莫大になる。それを説得して観光港に来ていただいた。トップに強力なリーダーシップ、行動力がなければ実現は不可能です。津島町、鬼北町からも同じレベルで参加頂きました。改めて南予の皆さんに敬意を表します。このようにじゃこ天カーニバルについても宇和島のトップの方々のリーダーシップを固く信じていました。

 

(つづく)

絶対成功するとの確信はほかにもある。地方局に人材が育ってきていたからである。行動しなさいと闇雲に言っても出来るものではない。人間は新しい行動をしようとするとき強烈な不安感にかられる。前に一歩踏み出せば未来が見えてくるのだがなかなか出来ない。この一歩がとてつもなく高い。だから訓練してこの一歩先の世界を見てほしいというのが私の持論である。それでこの一年様々なことに取り組んでいた。まずは、ガイヤカーニバルへの積極的な参加であった。

とりあえずは40人が参加し一応の成果は上がった。次に宇和島の手作りの観光ポスターの制作に取りかかった。バイクで現地を見ているときにあることに気がついた。高知県の観光ポスターが愛媛県内に沢山掲出されていることである。我が県より多い、というより我が県内は自らの行政区域にしか貼られていない。ひどいところでは役場内のみだ。ところによっては5、6年前のポスターがそのまま掲示されてもいた。岩手県からの言葉のように「掲示して頂けることはありがたいことです。」そのとおりである。掲示していただくためには不動産の一角を長期にわたって占有させて頂く。都市部であれば金銭に評価すればかなりの額になるであろう。だから掲示していただくのはそう簡単なことではない、頭を下げなければならない。松山観光港で全国各地、県下の市町を相手にポスター掲示を行っていた時本当の姿が見えた。岩手県のようにすぐ送って頂けるところ、持参して頂けるところ、すぐ側なのになかなか送って頂けないところ、送ってやってやると言う態度のところ、様々である。どことも積極的な観光の振興と名を打ち出しているのにである。観光ポスターは地域の役所内に掲示し事足りるのではない。管外に掲示してなんぼのものだということだ。気を付けた方が良い。真剣に取り組んでいるものにとっては真実が透けて見える。

それと、宇和島の素晴らしい姿が知られていない。この面白い一筋縄では行かない地域を多くの皆さんにも知って頂きたいと言う気持ちも強かった。それで、井野課長補佐、片岡係長を責任者に、ポスター制作の実質的責任者を松山大学で写真部の経験のあるG主事にお願いした。まだ、現地対策本部が置かれていていないのでボランテイアである。山崎(旧姓大平)秘書と兵頭主事(現南予地方局管理課主査)には局内の女性の方々に働きかけて頂きたいとお願いした。この後山崎秘書と兵頭主事は様々な取り組みで女性の方々のとりまとめに尽力を頂くことになる。そして局内の有志の方々が休日にボランテイアで一ヶ月をかけ2000枚の写真を撮影し完成させた。作成の過程ではG主事には妥協しないだめ押しをした。成功しないとみんなの全ての苦労が水の泡になるからだ。彼は苦労の末完成する。

この手作りのポスターは評判となり、マスコミにも取り上げられた。ただ、掲示頂けなければ自己満足で終わる。お願いに回ったところ、JA南林組合長さん(当時)は額に入れて頂きJA南本館の一階エレベーターの乗り口上部の一番見やすいところに、清水愛媛銀行支店長さん(当時)は銀行の立派なガラス掲示板の中に掲示していただいた。松山市には松本坂の上の雲担当部長(当時、現坂の上の雲ミュウージアム副館長)にお願いした。電話があり「松山城ロープエイ乗り場に掲示しておきました。一年間無料で掲示します。」とのことなので、松山に帰った際に確認に行ったったところ、思いもかけずライトに照らされた素晴らしい展示場でそのなかで存在感を示していた。このポスターは職員の方々の汗の結晶の賜なのでスタート地点でのこの3人の方々の宝物のような扱いには心から感謝した。自信がつくとともに今後行う予定の様々な0予算事業の大きな弾みとなった。無から有を生み出す時瞬間かいま見える芽生え、その時に成功へのイメージがはっきりと浮かぶ。休日返上で取り組んで頂いた方々に報えたかなと思いほっとした。

じゃこ天カーニバル準備中に実はこれも0予算であるが南予観光物産キャラバン隊を組織し、県庁で加戸知事にお願いし県下の地方局、各市を訪問し物産を持ってPRした。これは、井伊産経部長さん(当時、後南レク社長)に中心となって頂き実現したものだが、宇和島市、愛南町、鬼北町、松野町、JA南、宇和島蒲鉾組合が一緒になって行動した。この地域で各団体がまとまって行動したのは初めてでないかと思う。

JA林組合長、島原宇和島市蒲鉾組合理事長、鬼北町入舩課長、愛南町中村室長、松野町友岡係長(各当時)が、キジの焼き鳥、じゃこ天の揚げ方、鰹のたたきの造りなどの時間を計りながらのリハーサルは楽しい思い出だがひとかたならぬ尽力を頂いた。また、我が井野課長補佐、片岡係長がともに行動したのは言うまでもない。

そしてこのときに、この手作りポスターを訪問先に持参した。

なによりもこのポスター制作事業で大きな宝物を得れたことは嬉しかった。行動出来る人材がまた生まれたのだ。

その後、これらの方々が中心となってJR四国へ乗車しての宇和島観光入り込み調査、和霊祭りでのガイヤ、じゃこ天踊り、伊予銀行合唱団発表会でのじゃこ天の歌合唱、山内係長(当時現御荘林業課副参事)が中心となった南予アルプスパンフレット作成、清水管理課長さん(当時)の広見川、四万十川環境調査、井東県民生活課長さん(当時)の辰野川清掃隊の編成へとなり局内の行動力ある人材の確保へとつながって行く。

そして翌年の正月開けの部長、地方局長会議で加戸前知事の前で新年の夢を語ることとなる。

G主事が中心となって作成した手作りポスター、新宇和島伝説「四国・宇和島」の言葉は宇和島市役所神應観光課長(当時、後産業経済部長、現南予文化会館館長、作家として活躍されている)の作。

この言葉が全てを表している

南予観光物産キャラバン隊、高須賀東温市長さん(現市長会長)を囲んで。訪問先々で歓待をうけた。この事業も1ヶ月余りで実施。行動力のあるメンバーが揃えば事さえ決まると実行は早い。出来ない理論で無く成功のみに集中し行動出来るからだ。

(つづく)

部長、地方局長会議に入る前にもう一つ若い方にお世話になった話。

私の県庁時代で最も苦しかった事はと言えば、保健福祉の統合、保健所の再編であろう。人事異動し業務に就いた時これは大変だなと思った。

組織は多分直前まで固まらないだろうし、様々な要求にリアルタイムで応えなければならなくなる場面も出てくるだろう。また、700人余りの方々を全く新たな組織だから一人一人全員を貼り付けなければならない。医師、看護婦、獣医師など多種にわたる。経験別、出身地別など気の遠くなる配慮をしなければならない。それと組織名、課名、係名も新しい名称だ。通常は組織はある程度固定し異動者は約3割が普通だ。当時人事異動の業務は札を使って行っていた。700名も札を動かしての作業は不可能だ。それでこれに対応出来るのはパソコンソフトイクセルのソート機能を使用することしかないと決心した。幸いなことに当時からセル内にななめ罫線が引けるようになっていた。パソコンを使い出したのは生涯学習課の時からだ。パソコンも自作していた。パソコンョップではまだお宅みたいな高校生ばかりの時代である。それでとりあえず準備としてイクセルに一人ひとり人事に必要な事柄を別室で打ち込むことに取りかかった。それも本を片手に使用書を見ながらだ。当時県庁はまだワープロの時代であるのでこれに対応するためワープロに変換できる高価な変換ソフトも私費で購入した。また、当時のWINDOWS95と100メガバイト搭載のノートパソコンでは非力で良くフリーズをさせられた。それで自作パソコンにはソフトをWINOWSNTに搭載メモリを最大限にした。いずれも私費でこれも当時は高価であった。試行錯誤しながら業務を進めていた11月頃降ってわいたように保健福祉の統合の話が持ち上がってきた。保健所の再編これに手一杯なのにさらに対応事項が増え当初のスケジュールが大幅に狂ってきた。技術職の人事は公営企業局、農林水産。福祉、環境局に渡る、その窓口も私がするようになった。正月は9連休だったがそんなものは記憶にない、目が覚めると仕事を始めた。1月に入ると他部局からは出来たのだが保健部はまだかとの催促がくるようになった。周りはこの状況を理解していない人がほとんどだった、経験者ほど人事は3割程度の異動で終わると認識しているのでのでなぜまだ出来ないのか、といぶかしんでいた節がある。組織名から、人の異動先まで全て新たに作成しなければならない、前年度の資料は全く使えないのだ。それと15人の新松山保健所への異動者を募らなければならない。それも県職員の身分を離れ異動する方もいる。私に説得を任されていた。これが出来なければ人事案は出来上がらない。秘密裏にお願いしながらの併行作業であった。全く状況が異なるのだ。

パソコンで打ち、リッチテキストコンバーターでワープロに転換し、人事課に通う日々が始まる。この窓口になって頂いたのが若い担当者である。

この若い担当者は私が作成した原案を朝持参するとチェックをしてくれる。イクセルのセルは小さい、50歳になった私は老眼であり、自分が打ち込んだ字がよく見えないこともある、また保存を忘れたり、ソート機能ボタンを押し間違えかなりのミスがある。一人異動を変えると玉突き的に他も変えなければならない。彼はそれを念入りに根気よくいやな顔もせずチェックをするということを来る日も来る日も続けた。実は仕事は作るよりもチェックにエネルギーがいる。心から感謝した。内示日は迫る。私の心は時とすると折れそうになった。そのとき常に唱えたのが「己こそ己のよるべ、己をおきて誰によるべぞ、良く整えし己こそ誠得難きよるべなり。」少林寺拳法のだるまの教えとI君の常に先頭に立って行動する姿だ。そして自分をひたすら信じ己を取り戻した。ついに3月も入ったある日15人の方々の松山市異動の了解を頂いた。未知の世界に飛び込むこれらの方々の決心に比べれば私の苦労など何ほどの事でもない。私は15人の方々とお話するときある制限を若い担当者から言われていた。しかし、これは到底飲める条件ではない。腹をくくって条件を破った。終えた時彼は笑いながら電話で言った「あれを言ったでしょう。」彼は私のすることを知っていたのだ。出来上がったのは人事の内示日2週間前であったと思う。私は晴れ晴れとした顔で9ヶ月ぶりに個室となっていた部屋を出た。しかし、あることにこれを書きながら気づいた。若い担当者はなぜ私がパソコンを使いながらの人事につきあってくれたのか、それは人事課自体にも言える。まだ県庁では人事にパソコンなど使っておらず所定の業務推進方法ではない全く新たな取り組みだ。海のものとも山のものとも分かっていない、内示日までに完成しなければ人事課、担当者自身も責任を問われる。そもそもなぜ私をあのポストに就けたのだろう。実に私は悪筆で事務に堪能とはとても言えない。でも、結果的には成し遂げた。私は長い県庁生活で人事の希望を書いたのは2度しかない。新採時の県庁への希望と当時大きな権限を持っていた秘書広報課から市町村課への希望だ。秘書広報課の経験は実は後で述べるがじゃこ天カーニバルでは大いに役立った。ここでも皇太子殿下、妃殿下のお泊まりになられる55総体のふなやでの記者発表担当など新たな経験を次々と積ませてせて頂いた。しかしどう考えても若い私の実力以上の権限を持たせて頂いている。このままではだめになるかも知れないと感じていた。秘書広報課がいやで希望を出したのでは絶対ない。K課長が奔走し希望を実現させて頂いた。しかし後から聞かされた話では四之宮になぜあのような事を書かせたのかと若い私ごときのために数人の方々がしかられたと聞かされた。信じられない話だが。

私は異動の希望を書かなかった。しかし人間だからもうそろそろ異動かなと思うことはあったが、人事は常に私の予想外のところを示された。常に新しい分野であったが結果的にはスキルアップした。環境衛生係長では私の頭でっかちに気づかされ、八幡浜中央保健所勤務では地方局の実態を知った。それまでの2度の地方局勤務は総務税務課、総務調整課と権限の中枢機関だ。分かっているつもりでもそうではなかった。この八幡浜地方局勤務でもう一度地方局勤務になればこうしたいとの考えが生まれた。これが、結果的にはじゃこ天カーニバルに繋がることとなった。一体人事はどのようにするのか、私以上に私のことが見えている。宇和島地方局勤務は一度も勤務経験の無い私にとっては思いもかけないポストだったが私の最後の県庁生活に最もふさわしい満足のいく場所となった。宇和島以外では今まで培った全ての力を発揮出来なかったと思う。ありがたいことに定年後今になっても多くの市民の方々が一風変わった私とお付き合いを頂いている。

実は清家会長を囲む会でお会いした時、石橋宇和島市長さんにはじゃこ天カーニバルについて本音のもう少し踏み込んだお願いをした。しかし、お願いしたとしか書かなかった。市長さんの行動をしばる恐れがあったからだ。また実はの話になるがじゃこ天カーニバルが始まる時、市長さんに偶然お会いしお礼を述べた。そしていよいよカーニバルが始まってあることに気が付いて感激をした。それがじゃや天カーニバルの生い立ちをもう書いても差し支えないと思う原因となった。それがなぜかはまだ書かない。このことが第1回じゃこ天カーニバルが開催されるまでの結論となるからだ。

(つづく)

振り返っていると次から次えと窮地を救って頂いた方々を思い出す。私は悪筆なので代筆をお願いしなければならない。麓寿隆さんには大変お世話になった。生活衛生係長の時代である。私の前に座っていた彼は事務能力が極めて高いし、字もうまい。知事祝辞を書くことが多かったので最後の仕上げとして書が出来る方にお願いしなければならない。言うならば私はお願いの歴史ともいえる。彼は私が次々と代筆をお願いするのを特にいやな顔もせず即座に仕上げて頂いた。四面楚歌に落いっていた時なので本当にありがたく、心から感謝した。また、麓さんが東京事務所勤務の時、訪ね、じゃこ天の歌を東京物産店で放送するようお願いした。彼には足をむけては寝ることが出来ない。晩婚であったが奥様と仲むつまじく生活を送られているとお聞きしている。

実は、県庁生活で私の悪筆をずっと支えて頂いたのは22条の女性職員の方々である。誰の配慮か知らないがありがたいことに必ず側に書のうまい方々を配置していただいていた。それで22条の職員の方々にはずっと感謝の念を持っていた。言っているように南予の女性は実に様々な習い事をしており、多様なことが出来る人が多い。この力を借りたいと思った。井野課長補佐、片岡係長、G主事ばかりではない。これらの22条職員の方々には様々なお願いをし、南予地域活性化のために目を見張るばかりの活躍をしていただくこととなる。

年頭の地方部局長会議、知事、副知事の面前で各部局、地方局の抱負を述べる場所でもある。私は目標とはあくまでも具体的でかつ実現可能なものでなければならないと思っていた。また、喫緊の地方局の課題は柔軟に行動できる職員の醸成と思っていた。国、本庁がどんなに徹夜して苦労し予算が出来上がっても、当たり前の話だが、それを実行するのは、第一線の地方局、市町の個々の職員の方々である。個々の第一線の職員の意識が高くなく形式的な使い方をすれば、高邁な予算も絵に描いたぼた餅となる。これに気づいたのは八幡浜地方局の時だ。あれほど死にものぐるいでした組織改革だが赴任した時にある違和感を感じる。その答えが多分今市町村合併の功罪が問われているが、その答えではないかと思う。ここではそれは述べない。

そして私は、年頭の目標として100名の職員のガイヤカーニバルの参加と述べた。100人の行動出来る職員を創り上げるのだ。市民の皆さんの前で、目に見える形で元気な地方局の姿を見ていただくのだ。加戸知事はにこにこしながら、聞いて頂いた。吉野内副知事さんは、また変わったことを言っているなと言う顔付きで、にやにやしながら聞いて頂いた。このお二人の方のことはこれ以上ここでは述べない。石橋宇和島市長さんとの最後の結論の話となる。

ガイヤ踊り、実にハードで音楽も素晴らしい。しかしこれを、みんなであわせて踊るのは難しい。踊りの上手な方がおどれば迫力満点なのだが。どうかしようと考えた。高知のよさこい踊りはゆったりとしてダイナミッックでメジャーな踊りになっている。よし、ここは四万十ルート、足摺ルートの連携も含め高知県庁と訪ねようとなった。そして井野課長補佐とともに高知県庁に浜口観光部長(当時)を訪ね、連携をお願いするとともによさこいの踊りに関して、お聞きした。そして帰りにDVDを借りた。それを見ながら気づいた。人のルールで動くからだめなのだ。自らのルールで動けば良いのだ。つまり踊りの振り付けを踊りやすいようにアレンジすれば良いのだ。そして直ちに現在はY主事(当時)と結婚されている22条の女性職員Eさんに来て頂いた。そしてお願いした。「加戸知事さんと約束をした、今年のガイヤカーニバルは100人が参加する。よさこいのようにしたい。踊りを作って頂きたい。しかし易しすぎても迫力がなくなる、練習期間がいるから3月末までには完成してほしい。」と話しDVDを渡した。彼女は4人の22条の仲間集め3月末の完成に向けて邁進していただくこととなる。

 

左端 浜口高知県観光部長(当時)

(つづく)

 

3月末となったある日秘書の山内(旧姓芝)さん(じゃこ天の歌の楽譜を友人に依頼して頂いた女性、たすきを作って頂いた大平さんは結婚のため退職、それまで地方局の女性の方々を本当にまとめて頂いた。)が「ガイヤの踊りが完成したそうです。」と報告を頂いた。待ちに待っていた私は直ちに4人の方々に来ていただくように伝えた。ソファに腰掛けた4人の方々はおもむろにA4の図面を取り出した。驚いたことにそこには克明な手書きのイラストの踊りが図示されていた。4人の方々の説明が終わるのを見計らって山内さんが「4人が披露するそうです。」と話を引き取った。

そして4人の方々は踊り始めた、リズム感があり、ダイナミックですんぷの狂いもなく4人の息が合っている。

「ヤア」とのかけ声で最後を決めた。私は感動の余り身震いをした。これはいけるぞと心から思った。4人の方々に「ありがとう。」と感謝の念を伝えた。そして井野課長補佐と片岡係長に早急に100人を募り例年より早く練習に取りかかるように伝えた。井野課長補佐と片岡係長は苦労したらしい。最初は様々な人々からなっているためやる気が揃わずばらばらだったらしい。私は任せた事には余り口を挟まない。ただ、途中で一度だけ余りの盛り上がりのなさに壇上で喝を入れたことがある。長い練習期間を経てガイヤカーニバルの日となった。講堂で井伊産経部長さんの参列のもと出発式を行った。そして地方局の前で100人が踊りを披露した。見事に決まりこれからの出陣を控え昂揚感が高まって来た。長いきさいやロードで踊りが始まった。踊りの振り付けをしていただいた4人を先頭に踊り続けた。見事に決まった。夢中でみんなが踊り続けた。存在感を示しそして終わった。100人は満足感に溢れ喜びあった。

快い疲れの中宿舎に帰る途中楠葉さんに出会った。「素晴らしい出来良かったですね。」とお祝いの言葉を頂いた。

その後でつぶやいた。「地方局でもやれるんやなあ。」と、これは私には最高の誉め言葉に聞こえた。よし、地方局に100人の侍が揃ったぞ。

翌年のガイヤカーニバルで素晴らしい踊りを見せる宇和島市役所チーム

(注、今治市のラジオバリバリは、素晴らしい踊りで、連覇を重ねていた。)

(つづく)

2006年9月18日関係者の方々に呼びかけ地方局で初めての打合せ会議にこぎつけた。そこで皆さんに説明をさせて頂いた。0予算で行うこと。JR宇和島駅からきさいやロードの長いアーケードを使って行うこと。全国に打ち出せるオンリーワンのものにすること。つまり、神應観光課長の言葉を借りると「新宇和島伝説 四国宇和島」を創りたいということである。中には多分県が呼びかけたと言うことだから予算が付いた事業と考えた方々もおられたかも知れない。意図は第1回じゃこ天カーニバルのポスターに表しているが宇和島地域を越え外に広げていけるものだ。それには文化の香りが必要だ。だから全国でも通用する大和田建樹の力を借りることを考えた。こういうことは市の事だから宇和島市がすれば良いとの意見も根強くあった。そういうことを言っていると新しい事業はなかなか出来ない。国であれ県であれ市町であれやれるところがすれば良いというのが私の考えである。長いきさいやロードでの成功のポイントは商店街組合の積極的な支援が必要と考えていた。アーケード街にはスピーカーが設置されている。そこにじゃこ天の歌を流す、アーケードの下で市民のみなさんが手をつないで踊る。非常に長い踊りの輪だ、ギネスものだなと考えた。つきがあった。商店街組合長三原さんが音響マニアであり高級なシステムを持たれていた。これを使って頂けないかをお願いをした。実は会議はこれが初めてで最後である。参加頂いた皆様方が自らの力で成功に向けて努力を頂いたのである。初めてのことでしかも0予算だそれぞれのところできっと様々なストリーが展開された思われます。それを克服される力を持たれている。それが宇和島の方々だ。そして地方局は、ポスター作成、ガイヤカーニバルで踊って頂いた方々を中心としたじゃこ天踊り普及隊の編成、活動、各団体のトップの方々への参加のお願いへと続いて行く。なお、この写真は記念になるかもしれないと井野課長補佐にお願いしたものだ。まさかこういう形で日の目を見るとは当時思いもしなかった。

 

(つづく)

さっそくポスターの製作にとりかかった。ポスターは極めて重要と考えていた。また、単なるPRの手段とは考えていなかった。参加頂くトップの方々の決意発表の手段としたいと考えていた。また参加頂くトップの方々への説明に使いたいと思っていた。またイベントを単なる宇和島のローカルのものに終わらせてはいけない。地域外でも喜んで掲示していただくものにしたいと考えた。それに歌と踊りの祭典だ。メジャーな大和田建樹さんに活躍頂くほかはないと思った。それと中央制覇を考えていた。東京の首都圏制覇。具体的には新橋駅への掲示だ。汽笛一声新橋を、これから新たな出発を図るにはふさわしいイメージだ。宇和島の地域振興に積極的であった長岡宇和島教育事務所長さんにお願いした。美術の先生が肖像画を見ながら完成頂いた。ちなみにイラスト画が私の似顔絵ではないかと流布されたそうであるが事実はこういうことだ。私の方が大和田建樹さんよりずっとハンサムと思っている。ポスターは2枚セットとしている。もう一枚は参加頂くトップの方々にコメントを頂きあわせて掲示したいと思った。このイベントは、単に蒲鉾組合、地方局、宇和島市の事業ではない。市民の皆様が一体となったカーニバルと言うことだ。

ポスターは片岡係長が責任者に制作者は新宇和島伝説のポスター作りに活躍をしたG主事が携わった。原案が私のところに提示された。

じゃこ天合唱祭となっていたのを世界に向けて羽ばたくには余りにも弱い。カーニバルにするよう指示をした。宇和島市民の皆様に参加頂くよう9万人とした。世界に羽ばたけはじゃこ天の歌のCDを香港支店で当日放送頂くよう伊予銀行横井宇和島支店長さんにお願いを、アメリカのメンフィスでの放送を親族の方々が日本料理店を営んでいる市内の料飲業者の方にお願いをした。とりあえず世界には間違いはない。9万人は当日宇和島CATYに放送頂き画面の前で参加出来ない市民の方々がパフォーマンスして頂ければと考えた。それとフジさんに県下全店で放送頂けないかと考えていた。清家会長からフジ宇和島店長さんがもうすでにじゃこ天の歌を放送しているとお聞きしていたからだ。この件は清家会長がグランフジ本店におられる役員の方と懇意ということであったので会長と2人でお願いに行き実現をした。また県庁で毎日じゃこ天の歌を放送頂くよう檜垣企画調整部次長さん(当時、後東京事務所長)にお願いをしこれも実現の運びとなった。そしてついに手作りのポスターが完成をした。このポスターでトップの方々にお願いを清家会長とともに行脚を始めることとなる。また南予観光物産キャラバン隊でもPRをすることとなる。

そして直ちに念願の新橋駅掲示計画に着手する。JR四国のS課長さん(当時)にJR高松駅に掲示頂けないかまた、新橋駅で掲示して頂けるよう働きかけて頂けないかとお願いをした。後日電話があり「私の同期が課長でJR東日本にいる、愛媛県東京事務所に窓口を設けて頂けませんか」とのことであった。それで東京事務所の妻鳥課長さん(当時)にお願いをし引き受けて頂いた。そしてある日妻鳥課長さんから少し興奮した声で電話を頂いた。「ポスターが掲示されています。A0サイズのポスターが15枚、新橋駅と東京駅にもです。壮観です。2週間無料だそうです。こういうことはありない。これが最初で最後だそうです。」。

このポスターはまた宇和島市役所で業者に依頼して印刷していただくこととなる。雨に強いこのポスターは大変役立った。今冷静に考えると宇和島市役所には旨くフォローして頂いた事が多い。前を向いて前進のみの私に後輩にあたる私を森副市長さんが(当時)石橋宇和島市長さんや市役所職員の方々の調整に当たって頂いたものと思う。0予算だから当然市役所内にもストーリーがあったはずだ。

 

次回は閑話休題として地味だが極めて素晴らしい事業であった山内係長(当時)の南予アルプスパンフレット制作事業について紹介することとします。

   (大和田建樹イラスト原画、大切に保存しております。)

 

(つづく)

 

宇和島じゃこ天の楽譜も完成した私は、これを正式なステージで発表したいと考えていた。そして私の妻から伊予銀行合唱団が南予文化会館で定時演奏会を開催すると聞いたので団長の黒田さんにお願いをし、幕間をお借りし発表する機会をえることとなった。それは山内係長(当時)が宇和島市民合唱団の団長をしていたとどこかで聞いていたからだ。それで彼にまとめをお願いして実現の運びとなった。その時彼が南予アルプスに関してなみなみならぬ関心を持っていることを知った。登山道の案内板をボランテイアで設置をしていたりしていた。私も海抜0メートルから千メートル余りを一気に上るため植物群と景観が面白いこの鬼が城山系を地域の活性化に繋げれないかと考えていた。ある日山内係長が南予アルプスのパンフレットを作成することとなりましたと案を示された。それも国、県、市町、山岳会が一体となった取り組みと言う。これは大変素晴らしいことだと思ったので「節角皆さんが一緒になって作られるならこれこそパンフレットだといえる内容の充実したものにしたら、そして山内係長さん表紙はあなたが南予アルプスを写真撮影したものにしたら」と答えた。しばらくたって「こういうことで行きたいと思います。」と再度作成されれた案を提示された。それは予想をはるか超えた素晴らしいものだった。「写真は撮影出来なかったので、市から航空写真を借りました」。表紙も内容にぴったりだ。内容もは春夏秋冬でまとめられ分かりやすい。山岳会の方々が無償で貴重な写真を提供いただいたとのこと。見るだけで山好きの皆さんが叡智をしぼり作成したものと理解できた。「素晴らしい、これで行きましょう」と答えた。その後退職した私は松山観光港勤務になったが0予算でなにかオンリーワンになるものはできないかを模索していた。そして島原宇和島蒲鉾組合前理事長さんの言葉をヒントにして全国の観光ポスターの掲示を考え付いた。ポスターは北海道から九州まで500枚を掲示出来た。しかしパンフレットの展示場所がない。その時思いがけないありがたいお話が舞い込んだ。全国植樹祭担当の三好室長さん(当時、現南予地方局長)さんから100余りの木材のベンチの贈呈の話だ。これだけあれば乗客の皆さんの利用に活用してもまだ余る。この木材ベンチをパンフレット、リーフレットの展示に利用させて頂いた。それで中四国、九州のものを展示した。全国のポスター、中国四国、九州のパンフレット多分これほどのものを掲示展示しているところはないと思う。ついにオンリーワンを成し遂げた。ただ管理が大変だったが、松山市役所から来られた長野監査役が行動力ある方で手伝いを頂いた。大変ありがたかった。しばらくして休日のある日パンフレット、リーフレットがきれいに整っているのに気が付いた。売店の方にお聞きするとタクシーの運転手の方々が整理していただいていたとのことであった。これには本当に感激をした。当初は自治大学校同窓生、東京事務所、大阪事務所にお願いしたが後は直接私が直接電話をした。多くの観光団体を相手にさせて頂いたので全国の取り組み姿勢が良く分かった。評価する場所でないのでその結果は述べない。

この木材ベンチに山内係長作成のパンフレットを取り寄せ展示した。パンフレットのとられ具合によって人気の度合いがリアルタイムで示される。多くのパンフレットの中でこのパンフレットは常にベスト3を示した。そしてとうとう山内係長から電話があった。「鬼北町に問い合わせたところもう送付するほど在庫がないそうです。」。

山内係長はまた、四万十森林環境保全ふれあいセンターの秋山雅弘所長さん(当時)を紹介頂いた。四万十との連携を求めていた私にとって大変ありがたい話であった。川口さん、谷本さん、武内さん、柏木さんなどが遠路江川崎からしかも数回観光港までお越しいただきパネル展を開催頂いた。心から感謝した。

パンフレット、リーフレットはボックスで管理すれば容易であるが必要なものが探しにくい。横に並べていれば一瞥すれば必要なものが分かる。急いでいる乗客には遙かに便利だ。

(次回は、じゃこ天まきについて  つづく)

ある日玉井愛媛県合唱連盟理事(当時)がお越し頂きじゃこ天カーニバルに関しアイデイアを述べられた。その一つに牛鬼からのじゃこ天撒きを提案頂いた。内心これは困ったぞと思った。食品衛生法上どのようにクリアするか妙案が浮かばなかった。しかし愛媛新聞社宇和島支社の古川部長さんの言葉が頭に浮かんだ。(古川部長さんには本当にご支援を頂いた。南予の様々な事に関しお教え頂いた。古川さんの新聞記事を読み現地を訪れ地域を知っていった。古川部長さんは後、本社勤務になられたため私の松山観光港勤務までご支援が続いた。)。

地域の活性化について話しているときこの地域は餅撒きの文化が根付いている、餅撒きは外せない。人が集まる。」との言葉だ。面白いアイデイアだ。しかし山下さんと楠葉さんは了解頂けると思うが、島原理事長さん(当時)にはこれ以上ご負担をおかけしたくない気持ちも強かった。しかし、アイデイアとしては捨てがたい。思い切って理事長さんにお話をした。するとしばらく考えておられたが「サランラップで包もう、その中に当たりくじをいれれば面白い。」と答えられた。大変なことだと思った私はそれ以上強くはお願いはしなかった。

そしてついにカーニバルがもう明日を迎えるばかりとなった暗闇の夕方、Dうどん店に妻と車で食事に行っていた。

するとこうこうと明かりがついて多くの方々が何か黙々と作業をされている。何事かと思った私はお聞きした。

「明日のカーニバルのじゃこ天撒きで使うため包んでいます。」と答えられた。まさか本当に実行されると思っていなかった私は心から感動をし明日のカーニバルは絶対成功するぞとあらためて決意した。

話はまだ続くが多くの方々にお願いにするに際し心を打たれたことは多い。まさにこのことはカーニバルが南予の全員の方々の持てる力が結集された証だと思います。

ちなみに井野課長補佐と片岡係長は当時良く「耳元でいつもじゃこ、じゃっこと声が聞こえてきます。」と言っていた。

新たな取り組みだ、みんながそれぞれリスクを背負い成功をひたすら信じ必死だったのだ。

(次回は多大のご支援を頂いた無名会について)

無名会は毎月開催される。古谷元遊子漁業組合長さんを会長に副会長がかどや清家会長、事務局長に水本さんが運営をされる官、経、マスコミ、学などの親睦団体である。具体的には宇和島市副市長、愛媛新聞宇和島支社長、四国電力宇和島支店長、宇和島郵便局長、宇和島信金理事長、愛媛短期大学事務局長、三原産業会長などがメンバーである。まず、この会でじゃこ天カーニバルへの協力をお願いした。地域のために何かをしたいと考えておられたので皆様に概ね了解を頂いた。宇和島市に対するトップへの働きかけは森副市長さんがおられたのでこれが最初である。正式にはこの後宇和島石橋市長さんをお訪ねし森副市長さんにもポスターで説明をしコメントを頂き参加を頂くこととなった。どうも市役所内で様々な意見があったようであるがうまくまとめて頂いた。森副市長さんも大変だったと推察されるが市役所が全てを黙って飲み込み了解を頂いた事がなんと言っても第8回まで続いた大きな功績であることには間違いないと思う。それと宇和島市の産業祭りに組み入れて頂いたことが素晴らしい発案であったと思う。これが地方局と市の長きにわたっての円滑な連携に結果として繋がったと思う。

そして次は宇和島市議会に浅田議長さん、小清水副議長さんをお訪ねし同じくポスターで説明をするとともにコメントを頂いた。市議会は浅田議長さんが市議会の懇談会に私を良くお招きを頂いたので議員の皆様とも親しくお付き合いをさせて頂いていていた。即答で「宇和島のために是非やりましょう。」との力強い承諾を小清水副議長さんと2人からいただいた。この宇和島市議会の皆様方と親しくしていただいた事が後から述べるが成功への大きな起爆力となった。

また、県議の皆様にも良くご支援を頂いた。中畑幹事長(当時)さんにはしばしば生の県政の情報をお教え頂いた。

県議の皆様には市との定期的な連絡会があったのでその場でじゃこ天カーニバルのご支援をお願いした。根回し下手で好き勝手をする私に対し腹が立たれることも多かったと思うが本当に温かく見守って頂いた。感謝のほかはない。

山本公一先生には秘書の方を通じてご支援をお願いした。山本先生には私が窮地に陥った時に助けて頂いたことが忘れられない。

私が環境局長の時、新居浜市に廃家電のリサイクル施設誘致の事業に携わり、渡邉循環推進監とともに廃家電を求めて全国を飛び回っていた。始める時は通産省、環境省の担当課長さんにこれから廃家電を求めて全国を回りますと挨拶をした。

笑いながら「無理ですからやめた方が良いですよ。どうぞ。」ということであった。四国全体の廃家電に匹敵する量が集まらないと採算ベースに乗らない。多くの反対意見がある中「知事がやめろと言わない限りあきらめない。」を合い言葉に全ての家電メーカー本社、コカコーラ、自販機メーカー(今治西高同級生川井君を靖国の本社に訪問し、常務取締役さんとお話し、自販機からの美味いコーヒーを飲んだのも今は楽しい思い出だ。)などを訪ね必死で必要量の確保を積み上げて行った。ところが補助金の知事陳情となった前日の午後6時頃アポイントも取っていたにも係わらず担当課長さんから「来てもらっては困る、誰も対応しない。」との電話が突然あった。私には到底飲める話ではないので「それは困ります。行きます。」と言って電話を切った。今更連絡しても仕方がない。腹を括って東京に出張した。東京事務所での朝の国会議員の先生方を交えての会議資料を見ると、次官対応のはずが課長対応となっていた。多くの反対意見がある中常に支持を頂いていた知事に大変申し訳ない気持ちで一杯になりしょんぼりしていると、山本先生が話かけられた。「四之宮さん、課長対応になっているがどうしたのか。」。事情を説明すると「それは困るだろう。私から話しておく。」と答えられた。その翌日の陳情当日「話しておいた。」と話された。そして知事に随行し環境省に行った。

なんと対応が次官を越え鈴木環境大臣に対応頂いた。陳情は穏やかな内に終わった。私は面目を保ちほっと安堵した。心から感謝した。 
(環境大臣御就任おめでとうございます)

じゃこ天カーニバルでは議員の先生の皆様に温かく見守って頂いた事も成功の大きな要因だと思う。

(つづく)

次は長年のお付き合いで気心の知れている広瀬了社長さん(現宇和島商工会議所会頭)をお訪ねをした。広瀬さんとは県庁の市町村課の時一緒であった。人生の生き方に決して器用と言えないが裏で変な画策をしない広瀬さんは信頼出来また気が合った。私は選挙係にいたが当時衆参同日選挙、知事選挙などが続き多忙な日々が続いた。選挙は当然管理執行も大変だが選挙物資の作成、選挙啓発、投開票速報、次から次への市町選管への説明会など準備にはたくさんの方々にお願いしなければならないことが多い。当時は70市町村あったから市町村選管の事務説明会があれば150の机を大会議室に用意しなければならない。選挙係は4人しかいないので他の係に援助を依頼する。他の係も決して暇でないので最初の内は気軽に引き受けてもらえるがその内段々と返事が重くなる。特に財政係にはこういう事に得てた方々が多くざっくばらんな喜安係長(当時、現県共済組合連合会会長)さんには良く助けて頂いた。こいう状況下、広瀬さんには調整係として経費の円滑な支出や様々な積極的な援助のほか慰めをして頂いたりした。これを機にお付き合いがずっと続いていた。私が宇和島に赴任と同時に宇和島自動車の社長になられたのでなにか事があれば宇和島育ちの広瀬さんに相談をしていた。それで女性の秘書の杉浦さんとも顔なじみになった。ガイヤカーニバルの時は私が広瀬さんに「出場して踊ります。」と話していたのを、お茶を出して頂いていた彼女がそれを聞き「それなら社長も参加したら。」と上申され実現の運びとなった。また、辰野川清掃活動にも無理なお願いをし社員の方々の参加を頂いた。

じゃこ天カーニバルのお願いの時にも杉浦さんがお茶を出して頂きながら興味を示された。

広瀬さんは説明を聞かれた後「是非、参加します。」と力強く返答を頂いた。民間の経済人第1番目の参加表明、さい先良いスタートを切った。

そして、昨年の10月清家会長を囲む会で偶然にお会いし「今年は所用のため参加出来ません。」と話された。それを聞きむしろ驚いた。7回目までずっと参加し踊り頂いていたのか。広瀬さんらしいなと心から感謝した。

(松山観光港でのベンチャーフェアこれが宇和島だのポスター出演)

(つづく)

そして、経済会のトップ宇和島商工会議所新津会頭さん(当時)にお願いに行くこととした。宇和島商工会議所は地方局でのカーニバル打ち合わせ会議の際宇都宮専務さんにご出席を頂いたので概要は知って頂いていた。また、清家会長が新津会頭さんや宇都宮専務さんと親しい間柄であったので、お願いすると即座に力強く了解を頂いた。宇和島商工会議所へは定例の会議があり、出席の機会を得ていたのでその折会員の方々にも積極的なご支援をお願いした。地域の経済界のトップに誠に力強い参加へのメッセージ「宇和島じゃこ天カーニバルに参加し宇和島の活性化を積極的に図ります。」を頂いた事はなんと言っても大きい。0予算の事業の信憑性が高まり実現に向け大きな弾みとなった。そして第1回目のカーニバルでは壇上でパフォーマンスをして頂くこととなった。

新津会頭さんには、会議所の様々な行事にご案内頂くととともに地方局の地域振興のためのメッセージを発する講演の場を設けて頂いたりしたお陰で経済界の多くの方々と知り合うこととなった。新津会頭さんも宇都宮専務さんも穏やかな人柄でお話をさせて頂く時に構える必要がなく率直に相談をさせて頂いた。

 

(つづく)

そしてJA宇和島南林組合長さん(当時、後県農業協同組合中央会長)にお願いに行った。林組合長さん始めJA宇和島南の方々には本当にお世話になった。JA宇和島南のみなさんの支援が無ければ宇和島での2年間がこれほど充実したものにはならなかったと思う。地域の方々と早く顔見知りになりたいと思っていた私は様々な会議に出来うる限り参加をしたいと思っていた。林組合長さんとは会議にご案内頂き出席したのがお付き合いを始めるきっかけとなった。ある日の休日の午前7時30分頃地域を知るためウオーキングをしていて直販所みなみくんに立ち寄った。そこで林組合長さんにお会いした。驚いた私は「休日なのに朝早くどうしたのですか。」とお聞きした。すると「みなみくんの状況が心配なのでいつも出て来ています。」と答えられた。まさしく現場主義ただ者ではないなと直感した。後日著書を拝見させて頂き、多くの反対意見がある中みなみくんを立ち上げた事を知る。また遊子など地域の発展のため画期的な新しい事業を次々と成功させられていた。林組合長さんにはその後、地方局ポスター作成事業での協力、南予観光物産キャラバン隊での運搬手段の提供など様々な支援をいただくこととなる。米粉ぱんの事業も成し遂げて頂いた。これは、北宇和高校の生徒の方々が研究したもので、井伊産経部長(当時)さんが米粉パンを持って生徒の方々を案内して来られた。食して見るともちもちして実に美味い。これを事業化できないかと部長さんに相談をしたところJA宇和島南が取り上げて頂き実現化をした。加戸知事(当時)さんにも地方局に来られたとき食して頂いたが「実に美味しい。」とお褒めの言葉を頂いた。後日松山観光港の理事会に出席頂いた林組合長さんから「みなみくんで一番の売れ筋となっている。」と知らされた。南予の地域発展のため並々ならぬ考えを持たれていた林組合長さんはじゃこ天カーニバルの支援のお願いに即座に「みんなで参加します。」と力強く了承を頂くとともにコメントを頂いた。ポスターが完成した後清家会長と2人で掲示のお願いに回ったがJA宇和島南の各支所にも立ち寄らせて頂いた。その時の支所の方々の答えが「聞いております。踊りの練習をしています。」とどことも指令が徹底されており一様に明るく答えられた。「林組合長、JA宇和島南はすごいな。」と清家会長が感嘆され思わずうなるように言われた。

後日赤い牛鬼を制作したともお聞きした。

林組合長さんにはまた、松山観光港の監査役としてご尽力を頂いた。ベンチャーフェアこれが宇和島では農産物の販売とともに婦人部のみなさんに宇和島さんさや宇和島音頭を松山観光港で踊って頂いた。組合長さんの座右の銘「自ら燃えて人を燃やせ。」をお借りし私も事があればその言葉をとなえて行動をした。組合長さんからリーダーシップ、チャレンジ精神、人情、信頼感、組織のリーダーはかくあるべしと実に多くのことを学ばせて頂いた。

​           2017愛媛県功労賞受賞おめでとうございます。

(つづく)

赤い牛鬼を紹介させて頂いたので次は青い牛鬼宇和島信用金庫です。宇和島信用金庫は無名会のメンバーに日出山理事長さん(当時)がおられたので会議の時状況を話させて頂いた。丁度その時人事の異動があり、新理事長さんに高川理事長さんが就任された。日出山さんに紹介を頂き、宇和島信金に高川理事長さんをお訪ねした。そしてじゃこ天カーニバルへの参加をお願いした。高川理事長さんは南予のために何とか尽くしたいと熱意のこもった声であいずを打ちながらお聞き頂いた。また高川理事長さんは伊予銀行の幹部職員であったのを地域のために役立ちたいとの強い気持ちから宇和島信金に骨を埋める覚悟で就任されたとお話を頂いた。「この地域を何とか元気にしたい。行員あげて参加をします。」と本当に心を込めて承諾を頂いた。この力強い支援の言葉は私自身をも更に奮い立たせた。昂揚感に溢れ理事長室を後にした。清家会長とじゃこ天カーニバルのポスター掲示のお願いに回った際、やはり宇和島信金の各支店にお伺いしたがどこも「聞いています。是非参加します。」と地域の活性化を図ろうとの熱意が伺われる力強い返事を頂いた。「宇和島信金もすごいな」と清家会長は感嘆した。

カーニバルが成功に終わった打ち上げの日高川理事長さんから「真剣にするとはどういうことか知ることが出来ました。」と私ごときにありがたいお言葉を頂いた。

先日じゃこ天カーニバルで青い牛鬼が乱舞するのを見たとき理事長室での状況がつい先ほどだったかのようにまざまざとよみがえってきた。

今伊能忠敬の足跡を楽しく巡る会で「チャレンジ」の言葉を掲げ行動をしているのはこれらの多くの支援を頂いた方々にせめて恥ずかしい生き方をしたくないとの気持ちから生まれてきた。

(つづく)

宇和島海上保安部に参加頂いた経緯はこういう事です。海上保安部の会議に出席をすることにより伊藤雅之部長さん(当時、現第9管区海上保安本部長)とはお付き合いが始まった。また、海の日に保安部の船に乗船させて頂くことによって親しみが深まっていったがなんと言っても宇和島のイベントがある度にカメラ片手の部長さんにお会いすることがあり地域を知ろうとする意欲に並々ならぬものが感じられた。それでひょっとすると伊藤部長さんなら参加頂けるのではないかと部長室を訪ねた。

じゃこ天カーニバルの参加をお願いすると思っていたとおり「私も宇和島のためになにか出来ないかと考えていました。そういうことなら是非参加します。」と即座に快諾を頂いた。部長さんはまさしく海の男というとおりけれんみのない爽やかな方である。参加頂いた事によりなお、一層親しみがわくこととなった。私が宇和島を離れる時ご挨拶にお伺いすると「私も転勤することとなりました。これをお受けとり下さい。」と部長室に掲げていた額に入った宇和島の写真を頂いた。それは南予アルプスから見た宇和島の俯瞰図であり私たち地方局が作成した新宇和島伝説のポスターの視点と同じであった。部長さんは栄転に栄転をかさねられ現在は第9管区海上保安本部長として日本の安全安心を守るべく重責を担われておられます。ありがたいことに年賀、暑中見舞いを頂いているがそれには必ず自らが撮影された地域の写真が載せられている。第8回じゃこ天カーニバルで偶然参加されている宇和島海上保安部の方々にお会いした。伊藤部長さんの思いが脈々と受け継がれており感激をした。

(つづく)

宇和島税務協議会、宇和島税務署にも参加を頂いた。税務協議会会長は三原産業会長三原興二さんであった。三原さんはまた無名会のメンバーであり、清家会長と同郷の吉田町喜佐方のご出身で会議に参加すると私の話に良く耳を傾けて頂いていた。

10月のある日無名会が開催されているとき偶然近くの部屋で税務協議会の総会が開催されていた。私は知らなかったのだが清家会長はご存じであった。清家会長が私にささやいた。「宇和島税務協議会が今開催されている。お願いにいったらどうですか。」ということで案内頂き協議会が開催されている大広間に入った。清家会長に橋渡しをしていただきじゃこ天カーニバルの参加をお願いした。当然橋本税務署長さんも参加されていた。たくさんの方々が参加されていたのでついでにと思いじゃこ天の踊りを披露した。座がどっとわいた。後に正式に三原会長さん、橋本税務署長さんに参加のお願いに行った。お二人から快諾を頂いた。

カーニバルも間近になって、松山にPRに行こうと言うことで井野課長補佐、片岡係長、ウグイス嬢として私の秘書であった才木さん(旧姓、井上)とともに休日であったが広報車を走らせた。松山市内をじゃこ天の歌と案内の放送しながらくまなく回った。

夕方になったのでもう帰ろうと国道を放送しながら走っていた。

ぼんやりと車窓を眺めていると、黄昏の中6.7人の人々がこちらに向かって飛び上がっている。

一瞬なんだろうかと思ったがよく見るとガソリンスタンドの方々で宇和島じゃこ天の歌に飛び上がり、必死に手を振りながらエールを送って頂いているのだ。郷土宇和島を思う熱い心に本当に感動で胸が一杯になった。

(つづく)

 

四国電力宇和島支店にも参加を頂いた。高松から赴任された渡里宇和島支店長さん(当時)は無名会のメンバーであり本当にざっくばらんな性格の方であった。無名会の時は気軽にお話をさせて頂いていた。私の公舎の近くに宇和島支店長宿舎があり、支店長さんが出勤されるときは公舎の前を通られていた。妻が庭の花々に水をやっていれば挨拶を交わして頂けるなどされていた。また支店長の奥様も大変明るい方で妻はお会いすればあれこれとお話をさせて頂いた。こういうこともあり良く支店長室に顔を出せて頂いていたので当時から宇和島支店の皆さんが南予の地域の活性化のため力を尽くしたいとの並々ならぬ気持を持たれていたことを知ることとなった。

支店長室をお訪ねしカーニバルへの参加をお願いしたところ「何かをしたいと思っていたところです。」と力強く参加の言葉と参加に当たってのコメントを頂いた。

また宇和島支店の皆様には辰野川清掃隊にもご多忙の中参加を頂いた。

第8回じゃこ天カーニバルを見させて頂きこの思いをずっと続けられていることを知った。

(つづく)

じゃこ天カーニバルはマスコミの関係の方々の支援も大きい。宇和島地方局の様々なゼロ予算事業を積極的に取り上げて頂いた。無名会のメンバーに愛媛新聞宇和島支社長の諸江さんがおられた。私はマスコミ関係の方々を全く苦にしない。若い頃広報広聴課にいたからだ。県庁時代最も面白かった時はと聞かれれば躊躇なく藤井秘書公室長(当時、後副知事)さん傘下の広報広報課だ。この時代新しい取り組みとして生まれた係で若い私にどこでも自由に入れる自由な権限を与えられた。それで55総体のふなやでの伊賀部長(当時、後知事)さんの発表担当、四国中央市での四国4県知事による高速道路起工式や大三島橋の起工式、山財ダムの起工式など白石知事さん時代の多くのビックイベントを見させて頂いた。その中の大きな仕事が番町記者クラブの記者の方々とのお付き合いだ。当時の記者クラブはNHK番組の事件記者通りの雰囲気である。豪傑が揃っていた。愛媛新聞今井さん、新田さん、菊池さん、NHK白石さん、日野さん、南海放送河田さん、東さん、久米さん、読売新聞近藤さん、産経新聞水野さん、村上さん、東さん、毎日新聞桜井さん、日刊新愛媛梶原さん、大北さん、時事通信岡野さん、共同通信相原さん、日本経済新聞相川さん、愛媛放送門屋さん、喜田さん、西林さん、堀内さん 県広報番組担当としての南海放送長野さん、宮内さん(肩書きは除かせて頂いています。)これらの方々に物珍しさもあったのであろう。みなさんは敏腕記者として恐れられていたが若い私は大変可愛がって頂いた。

愛媛新聞の今井広告局長(当時、社長、会長、現相談役)さんには特に若い私たちの勉強会のサークルで講師をしていただくなど県政の裏情報などお教え頂いた。思い出は今井広告局長さんに担当をお願いし白石知事さんと林美智子さんとの日中友好の翼ということで愛媛新聞一面で県政広報を行ったことだ。対談は東京の帝国ホテルで行われ当時としては画期的なことであった。電通の小林さんに取り扱って頂いたが広報するための企画会社があることを初めて知った。それと私の推測かも知れないが宇和島に赴任している時、正月に経済同友会から講演の依頼が急遽あった。お聞きすると「今井会長さんが急遽これなくなった。代わりにお願いしたい。」とのことである。今井会長さんの干支を題材としたお話は有名でライフワークである。私には役不足であることは十分認識していた。思いをありがたく受けさせて頂きじゃこ天カーニバルのお話をさせて頂いた。不思議なことだがこの連載の続きを書こうとしたとき愛媛新聞朝刊に市町村合併の記事が掲載されていた。実はあの合併の骨組みを事前に発表するきっかけとなったのはこういうことだ。病床に愛媛新聞の菊池さんをお見舞いしたとき市町村合併の話となった。その時菊池さんが「愛媛県では今まで事前に案を発表したことがない。今回は事前に発表し意見を県民の皆様からお聞きした方が良い。」と提案された。ずっとこの事が頭から離れなかった。吉崎総務部長さんは前向きな方だからいつか話そうときっかけを探していたところ随行をする機会を得た時車中でお話をした。「やろう。」と即了解を頂いた。U係長(当時、実質彼が最初から最後まで事務方として合併を成し遂げた。)に取りかかってもらった。そして愛媛新聞一面の全面記事となった。

ということで宇和島の隅々まで知り尽くしている諸江支社長さん(後日、今治西高同級生 玉井君の縁戚に当たることを知ることとなった。)には支社にお伺いし事あるごとに相談に乗って頂いていた。その時古川部長さん(当時)を知ることとなった。お二人の適正なお話は本当に力強い支援となった。支社には大田原さんと言う女性記者がおられたが明るい方でお聞きしたらやはり保健所に勤務されていた獣医の大田原課長さんの娘さんであった。本当に宇和島支社のみなさんにはお世話になった。南海放送のもぎたてでの放映やNHKの女性の記者の方々を始め多くのマスコミの支援を頂いた。これらの好意的なマスコミのみなさんの記事が我々への大きな励みとなって目的達成に向け突き進んでいった。

また、宇和島ケーブルテレビに中川総務部長さんを井野課長補佐とともにお願いに行きじゃこ天カーニバルのポスターを放送中背景に掲示して頂くようお願いし了解を頂いた。これが大きな効果をあげた。ただ一度記者の方々に申し訳ないことをした。懇親会をして大いに盛り上がり公舎に行こうとお話があった。反射的に渋った。私は40歳以降2次会にはつきあわない。肝臓、胃で命が助かり30歳から血圧の薬を飲んでいたためいつか心臓も悪くなるのではないかと恐れていた。多分名医に恵まれたことは勿論であるが心臓、肺炎に罹患し命を取りとめたのはこの節制を続けたお陰であると思う。ただ高校の同級生の3人会だけは唯一例外でありJRの時間を気にしながらであるが2次会でカラオケを楽しんでいる。そして、思いがけず、愛媛朝日テレビに最後に取締役として参加出来たことはこの上ない喜びとなった。

(番町記者クラブ当時頂戴した名刺。当時のお人柄のまま松前町長として住民の
方々の厚い信頼を得て活躍されているように思います。)

 

 

 

 

(紫電改引き上げ 番町記者クラブのみなさんと 皆さんに親しまれていた愛媛放送記者堀内さんが乗られていたセスナキが

 

 

眼前で墜落し、深い悲しみに包まれた。

(つづく)
 

宇和島警察署のみなさんにも参加を頂きました。浜田署長さん(当時、後警察学校校長)とは交通安全協会の会議で知り合うこととなった。会議の前に署長室で話す機会を得ることが出来た。大変フランクな方であり、この方も南予の地域活性化のために何かをしたいと常々話されていた。言うまでもなくじゃやこ天カーニバル最大のポイントは事故発生の防止である。このリスクをいかに最小限にしてハードルを越え実行の決断ができるかどうかにかかっていた。それで万を喫して当日の安全警備を井野課長補佐とともに署長さんにお願いした。

「宇和島の活性化のためにそれは良いことです。」と快諾を頂いた。ずっと気にしていたことでありお聞き頂いて気持ちが本当に軽くなった。カーニバルの当日、警備は万全で何事もなく終わり心からほっとした。そのお礼にお伺いするとき井野課長補佐が話かけてきた。「宇和島警察署は警備だけでなく、若い署員の方々が踊りにも参加されたそうですよ。」全く予想外のことであり、驚くとともに心から感謝した。あの時は地域の多くのトップの方々が地域を活性化しようと燃えていたのだ。

(つづく)

てんやわんや王国にも参加を頂いた。てんやわんや王国とお付き合いさせて頂くきっかけとなったのは、小笠原大統領がある日私の部屋を訪ねて来られた。そしてやわらかい独特の南予弁でしらうお祭りの案内を頂いた。そこで初めて津島にてんやわんや王国というボランテイア団体があるのを知った。津島町岩松川でのイベント。獅子文六作小説「てんやわんや」の舞台。大畑旅館。新田商工会長さん、様々なことが頭に浮かんできた。そして参加し驚いた。岩松川が多くの人々で埋め尽くされていた。私も餅撒きをさせて頂いた。終わった後大統領が言った。「岩松川は宝です。ゴミは一片も残しません。」。とにかくメンバーの方々が良く動くのである。私は思った「地域活性化のために絶対力をお貸し頂くぞ。」。その後井野課長補佐とともに磯釣り大会に案内頂いたりしてメンバーの方々と親しくなっていった。大統領が経営されている喫茶 磯 は料理も旨い。それで妻とともに食事に行き私はカツ丼を妻はオムライスが好物なので頼んで利用をさせて頂いていた。それで愛南町からの帰り夕食でも食べようかと妻とともに立ち寄った。すると大統領が「良いところに来た。今からバーベキューパーテイをするところです。参加下さい」。さすがに固く固辞したが熱心に言われるので参加させていただくこととした。驚いた素晴らしい料理もさることながらメンバーだ女性の方々、元校長先生、元郵便局長さん、市役所の現職の管理職など多彩でみなさん底抜けに明るい。大いに語らせて頂き一層親しくなった。赤松消防署課長補佐(当時)さんが「私もここでは若者一兵卒です。」。松山観光港でベンチャーフェアをしていただいたがその時五鹿踊りにも参加頂いた。メンバーである山本経営支援課長(当時、後、南予地方局長)さんにも来て頂くようお願いにいった。平日のイベントであったが「出来る限り都合を付け参加します。」と快諾を頂いた。新しい取り組みであったので心から感謝をした。勿論山本さんもてんやわんや王国では一兵卒である。そう言うことで今こそ力をお貸し頂く時だと思いてんやわんや王国のカーニバルへの参加をお願いした。「出来る限り人を集め参加します。」とお聞き頂き当日は津島町から駆けつけて頂いた。その足で津島高校に山内校長先生をお訪ねした。津島高校のバトンガールの参加をお願いした。山内校長先生は私と同郷の旧東予市の出身と言うこともあり顧問の先生を紹介頂き当日パフォーマンスをして頂いた。てんやわんや王国には地域の活動とはどういう事かを学ばせて頂いた。民と官が一体となった活動は誠に見事と言うほかはない。

 

日本一大きい樹根太鼓の前で 

  (つづく)

宇和島真珠会館森田社長さんにも支援を頂いた。局長室をオープンにしていたのである日突然森田社長さんが訪ねて来られた。この方が真珠会館の社長さんか、まさか女性とは知らなかったので驚くととともに真珠に対する熱い思いに圧倒された。

宇和島と言えば真珠会館それがずっと以前からのイメージでだったので地域振興を考えていた私にとって森田社長さんとの出会いはこの上ない幸運であった。真珠工作室を開催されていたので利用させて頂いたりした。とにかく行動力が素晴らしい。それから意見の交換をさせて頂いたりして真珠業界を知る上で大変役立った。

また、お遍路さんが良く利用されているなどのお話を頂いた。

じゃこ天カーニバルの推進に走り回っていた頃秋祭りの集まりにご案内を頂いた。

たくさんの真珠業界関係の方々がおられた。そして冒頭時間を頂いたのでじゃこ天カーニバルへの支援をお願いした。懇親に移り業界関係の方々に膝を交え支援をお願いをした。みなさんも宇和島の振興を心から願っていたので温かい激励を頂いた。力がよみがえり心から感謝をした。宇和島を離れても森田社長さんにはご支援を頂いていた。そして不思議なご縁となったが私の従兄弟が宇和島に住むこととなった。彼と結婚しているM子さんが森田社長さんの宇和島東高の同級生と言うことで南予に知り合いのいない従兄弟の仲間作りに力を貸して頂いたりしていた。それで清家会長を囲む会場に向かうため待ち合わせた小清水宇和島市議会議長さんに真珠会館にお礼に寄りたいとお話し立ち寄ることとなった。中に入ると突然森田社長さんとM子さんが現れた。驚いたがこれから高校の同級会を開くところだとのことだった。

お礼を述べるとともに多忙な時間であったにも係わらず時間を頂き懇談をした。話は多方面にに渡りあっという間に時間が過ぎた。翌日従兄弟の家を訪ねた。M子さんが言った。「議長さんと堂々と渡り合う森田さんを見て驚いた。同級会では聞き手に回り自らのことは余り話さないあんな姿は初めてです。」と。

(つづく)

伊予銀行さんにも支援を頂いた。横井宇和島支店長さんにじゃこ天カーニバル参加へのお願いをするととともにコメントを頂いた。また、じゃこ天の歌の香港支店での放送をお願いした。快く引き受けて頂いた。これによって世界に向けてのキャッチフレーズが生きてきた。未来が大きく開けた。それと愛媛県合唱連盟を足場に伊予銀行合唱団黒田団長さん、玉井合唱連盟理事さん、私の妻との3者の巡り合いによって話のきっかけが生まれた。これがなければカーニバルは生まれて来なかった。3名の方々がじゃこ天の歌を知っていたのも不思議なことだ。それを考えると黒田団長さんが我々地方局職員にじゃこ天の歌発表会の機会を与えて頂いたこの時からじゃこ天カーニバルは実は始まっていたのだ。

愛媛銀行宇和島支店にも支援を頂いた。

休日の日であったと思うが、宇和島城資料館を見ていると偶然清水支店長(当時)さんにお会いした。お聞きすると南予地域を知るために休日の日に地域を巡っているとのことであった。そういう事もあって地方局職員が新宇和島伝説のポスターを作成したときも引き受けて頂けるかもしれないと思いお願いに上がったところ立派な掲示場に掲出して頂くこととなった。その時南予の地域活性化のために並々ならぬ意欲を持たれていることを知ることとなった。それではとじゃこ天カーニバルのお願いに伺ったのだが来客者が多い多忙な時にも係わらず応対を頂いた。「南予の地域活性化は当行のモットーです。当行をあげて参加します。」と力強い支援の言葉を頂いた。先の見えない新しい取り組みの時はこういう力強いメッセージはなによりのカンフル剤となる。また元気を取り戻した。愛媛銀行との思い出はと言えば、私は生涯学習課長補佐として歴史文化博物館、科学博物館、県美術館の建設に携わった。そして県民環境部管理局長として文化行政を所管することとなった。その時新聞で愛媛銀行に古札が出てきたとの新聞を見た。即矢野愛媛銀行県庁支店長さん(当時)をお訪ねし直接の所管ではなかったが歴史文化博物館への寄託をお願いした。銀行本店と折衝をされ実現の運びとなった。ざっくばらんで明るい支店長さんとはそれからずっと挨拶を交わして頂くこととなった。

また、松山観光港勤務を始めた時目に付く観光PR掲示板が空白となっていて非常に見苦しい。それで愛媛銀行さんにお願いをすることとした。どこの施設もこのような掲示板の撤退が相次ぐ中であったが引き受けて頂いた。観光港が見違えるようになった。

話が脇にそれたが清水支店長さんの南予の地域活性化に取り組む並々ならぬ意欲は地方局への力強い大きな支援となった。

  

(愛媛銀行PR板)

(つづく)

宇和青果にも参加をお願いした。

宇和青果濱名組合長(当時)さんとは組合の総会に案内頂きお付き合いが始まった。濱名組合長さんはなんとかみかんの販売の売り上げを伸ばそうと尽力をされていた。

その時いつもお話に出てくるのが宇和青果の赤箱のブランド化、みかんの販売を全国一にするのだと熱く語られていた。濱名組合長さんは総会などの時、みかん農家の方々との膝をつき合わせての懇談の場を与えて頂いた。みなさんがみかんづくりに誇りを持たれており大変研究熱心だったのを覚えている。

その時、みかん研究所の高木所長(当時)さんも同席することが多くみなさんと「理論じゃない、実践だ。」など忌憚なく熱っぽく論争するのを楽しく聞かせて頂いた。みなさんに信頼されていた高木所長さんは必ず命をかけていたブラッドオレンジの普及について熱く語っていた。本当に楽しい思い出だ。

南予の柑橘については林JA宇和島南組合長さん(当時)、濱名宇和青果組合長さん(当時)、小清水宇和島市議会副議長(当時)さん。高木みかん研究所長さん(当時)に教えて頂いた。

清家会長とともに濱名組合長さんをお訪ねした。

じゃこ天カーニバルの参加をお願いすると「全面支援をします。」と力強くお答えを頂いた。今でも当時の宇和青果の側を通る度に「宇和青果の赤箱」の言葉が浮かんでくる。

(第1回宇和島じゃこ天カーニバル当日)

  

(みかん研究所棟上げ式。お盆のように大きい餅を高木所長さんに撒かせて頂いた。)

 

(つづく)

ある日児童福祉施設谷口みどり寮長さんが訪ねて来られた。地域交流事業芋炊き大会への案内である。施設の子供さんたちと住吉地区の住民の皆様、国会議員、県会議員、市長さん、経済界、福祉関係の方々など500名近くの方々が芋炊きを楽しもうといういう行事である。もう24回目を迎えるという。また、経緯などを詳しくお話頂いた。これは素晴らしい催しであると言うことでお受けさせていただくこととした。当日出席すると多くの方々が集まっている。中畑幹事長さん(当時)、石橋宇和島市長さんなどとともに挨拶をさせて頂いたあと赤松県議さんの乾杯の音頭で懇親に移った。子供さんたちも歌い、踊り心から楽しんでいた。次第の一つとして楠葉拓史さんが牛鬼のパフォーマンスで出席者を壇上に呼び上げブーヤレを吹かせた。突然私に指名があった。

覚悟を決め壇上に上がった。ブーヤレを渡され吹いたがスースー言うだけで一向にならない。ならばと「私はじゃこ天の踊りをします。」と踊った。併せてじゃこ天カーニバルの案内をした。会場から拍手を頂いた。それにしてもこの芋炊き大会みなさん和気相合として本当に楽しかった。思い出に残る行事であった。

(つづく)

清家会長と2人で宇和島市役所が業者に依頼し印刷して頂いたポスターを携え掲示の依頼に回った。先に書いた通りJA宇和島南、宇和島信用金庫などが積極的に活動して頂いていることが分かった。清家会長のご存じの喫茶店やお店を回りPRも兼ねお願いした。ポスターを持っての依頼はマーケットリサーチングも兼ね一石二丁となる。清家会長は顔が広いので「偉いさんがポスターを持ってなにをしよるんですか。」と声が方々でかかる「じゃこ天カーニバル言うてじゃこ天の祭りをするからきなはいや。」と答える。と言うような事を続けながら回っていると、ある海岸通りの店から声がかかった。「お茶でも飲んで休んでいきなはいや。」。甘えさせて頂くこととした。手作りのまんじゅう屋さんである。この手作りのまんじゅうは本当に美味かった。スパー新橋にもおろしているとのことであった。じゃこ天カーニバルの話が出る度に「あの時のまんじゅうは美味しかったな。」と清家会長と話題にする。

 

(つづく)

ポスターの掲示のお願い回ることは余り苦にならない。理由を思い出した。それは最初の赴任地西条県事務所伊予三島出張所税務課にある。県庁生活でいつまでも思い出に残ることがあったところと言えば最後の宇和島地方局、そして伊予三島出張所税務課だ。赴任した私は税の賦課の係に配属された。ところが悲しいかなAとかBとかの代数に慣れた私には不動産などの大きな税額が読めない。要は集計が出来ないのだ。課長さんに西条県事務所で最もぼろいと言われ徴収係に回ることとなった。賦課係落第だ。ところが伊予三島出張所の未収小票は一人当たり1000枚を越えとてつもなく多い。悲しさはあったが落胆している暇はない。毎日毎日徴収に滞納者宅を訪れた。それとありがたいことに周りの諸先輩は有能な方ばかりでこんな私をかばいつづけて慰めをしていただいた。そればかりか釣りに誘って頂いたり昨夜釣ったと言って家で焼いたウナギの蒲焼きを頂いたり、弁当を差し入れて頂いたりした。とにかく良く酒に誘って頂きその後では独身だ寮に帰っても仕方がないだろうと言うことで良く自宅に泊めさせて頂いた。秋祭りが始まると伊予三島、川之江、土居町、新居浜市。西条市と順番に家に招待を頂いた。酒が強く当時はいくらでも飲めたため料飲調査に行くと「お宅船員さんですか。」と引っかかって終う。又先輩が「四之宮さんもてるのは四之宮さんにはでなく、お金にだからね。」と心配して頂いたりしていた。当時としては珍しい差し押さえから競売などの経験もさせて頂いた。課長さんは相変わらず私に対して出張に差を付けたり優しい態度とは言えなかったがある日見直す事件が起こる。私が何度も約束を違える滞納者に「家を差し押さえる。」との言葉に激怒し事務所に乗り込んできた。「家を差し押さえると言ったやつはだれだ。」。一瞬事務所が凍り付いた。「私です。」。胸を掴み殴りかかって来た。すくっと立ち上がった課長さんが大声で「公務執行妨害だ。」と叫んだ。振り上げた拳がぴたっと止まった。

だだ私は徴収から様々な事を学んだ。資金があるのになかなか納付をしていただけない人、資金がなくても真面目に納付頂く人。滞納金を立て替えたのに「だまされるのは自分が悪い」と返して頂けなかった人。だから私の合い言葉は「正直者に馬鹿をみさせるな。」だった。私が徴収するのを心配されるかたもいた。私は仕事以外のことでは余り自己主張をしないので素直でおとなしいと見られる方々もいる。だが仕事になると激変する。その乖離に今まで付き合っていた人でも戸惑われることがある。じゃこ天カーニバルでも信じて頂けなくて本当は誰がしたんだと言われたこともある。徴収で1日30軒、40軒と訪問していると人と話すのがいやになる。また訪問するのが気が重い滞納者もいる。でも一度でも逃げると次に行けなくなる。誰も見ていないから避ける事はできる 。でも逃げれば終わりだ。3年間が経過し県本庁への人事異動が決まり何度訪問しても了解していただけないある超高額滞納者を訪問した。納付のお願いをすると「兄ちゃん負けた、納めよわい。兄ちゃんうちにこんか、役人にしておくのはもったいない」。また、異動した後で誰かから言われた。「四之宮さんが、徴収した後は草木も生えない。」徴収冥利に尽きる。

どんな経験でも生きてくる。これがポスター張りだった。

 

 

(法王山脈から四国中央市を望む)

 

(つづく)

 

島瀬社会福祉協議会長・自治連合会長(当時)さんにも井野課長補佐とともにご自宅を訪問しお願いをした。島瀬会長さんとは会議に案内を頂き知り合うこととなった。温厚で誠実な島瀬会長さんとは親しくお付き合いを頂いていた。それでお願いに伺うと「参加します。」と力強いお答えを頂いた。市民の方々が参加する窓口を確保することとなった。又宇和島水産高校も訪ねお願いをした。当日は水産高校の文化祭にあたるのでじゃこ天を販売することとじゃこ天の歌を会場に流すとの返事を頂いた。宇和島南高校、宇和島東高校にも支援のお願いに伺った。愛媛女子短期大学もお願いに伺った。当日文化祭なので参加は出来ないがじゃこ天の歌を会場で放送し踊りをするとの了解を頂くこととなった。ただ愛媛女子短期大学は地域の活性化に力を入れており、私の松山観光港勤務の時これが宇和島だに参加頂き躍動感溢れるダンスを踊って頂いた。

(つづく)

ここまで余り宇和島蒲鉾組合のことが出てこないので不思議に思われるかも知れない。

それはこの一年間余りのお付き合いで島原理事長さん、薬師神専務理事体制に絶対的な信頼を持っていたからだ。連絡を余り取り合わなくても全力を尽くし最善のことを成し遂げて頂けるだろうと心から思っていた。そして最後まで付き合って頂けるだろう(はっきり言うと逃げないだろう)と確信をしていた。実際組合はじゃこ天横丁やじゃこ天撒きを独自に計画し実行した。じゃこ天カーニバルまで10日足らずとなったある休日松山にPRに行くことになった。宇和島蒲鉾組合の皆様、清家会長、井野課長補佐、片岡係長、じゃこ天カーニバル啓発隊(じゃこ天の踊りを普及させるため踊り指導隊を結成した。)

まず、清家会長と私で事前の了解を頂いていたフジ本店でみんなで踊った。そして道後、城山ロープウエイ乗り場、大街道で30分から1時間余り必死で踊った。

後日妻にそのことを話すと「踊ったのは島原理事長さんだけだと思っていた。」私は答えた「安岡社長さんなど社長さん方々も参加し踊ったんだ。組合も全力をあげたんだ。」。

 

(つづく)

丁度その頃,今治市の国際ホテルで,今治西高校の同級会が開催された。久しぶりの開催というということで宇和島から参加をした。繁信君(元今治市長)も参加されていたので市長会の副会長であった当時,合併委員会のメンバーであった彼には言葉につくせぬ尽力を頂いたので,お礼を述べたりした。そして盛り上がったところで自己紹介の時間となった。パフォーマンスを交え南予活性化の支援とじゃこ天カーニバルの参加をお願いした。同席していた羽藤君が驚いた。高校時代おとなしかった私がそういうパフォーマンスをすることが信じられないようであった。後日今治、松山から松葉さん、穐岡さん、田窪さん、藤本さん、真木さん、森田さんなど女性の同級生が宇和島まで来ていただき激励を頂いた。私も伊達家の墓地など案内するとともに昼食はかどや本店で南予の鯛飯を楽しんだ。楽しい思い出だ。


 

​松葉さん制作

(つづく)

応接間で本を読んでいると妻が大声で叫びながら走って来た。「踊ってる。」なんだろうと思ってテレビの前に行くと実に感動的な画面が映し出されていた。宇和島ケーブルテレビに我が宇和島地方局のじゃこ天踊り指導隊の指導のもとに森副市長さん、小清水市議会副議長さんを先頭に顔見知りの市議会議員の皆様が必死にしかもユーモラスに踊っているのだ。しかも素晴らしいことに会派、党派を越えてだ。じっと画面を見据えた。押さえても押さえても感動が溢れてきた。今まで実行してきた様々な事が頭に浮かんできた。妻に言った「じゃこ天カーニバルは絶対に成功する。」。行政の代表と市民のみなさんから選ばれた方々の踊る姿が放映されているのだ。0予算と言うことで半信半疑であった方々へのこれほど説得力のあるPRはない。森副市長さんもかってなことをする私に腹を立てながらも大学の後輩に当たることから力を貸すかということだと思うし議員の皆様方には膝を交えての懇親を頂いたことがここにきて生きてきたものと思う。なんといってもみなさん宇和島の活性化のため何かしたいと思う強い願いを抱いていたのだ。

私はこの時初めて心からの成功を確信した。
(つづく)

 

カーニバルが近づいてきたので最後の総仕上げとして地方局に関係団体の方々に参集頂き踊りの練習をすることにした。島原組合長さんはじめ多くの方々が地方局7階の講堂に集まった。壇上に片岡係長や指導隊の方々が上がり、練習が始まった。皆さん必死にしかもユーモラスに笑顔で踊った。そして成功を誓いあった。

そしてカーニバルの前日の土曜日を迎えることとなった。

妻と買い物をしようと車でかどや本店の前を通りかかると清家会長、井野課長補佐、片岡係長、踊り指導隊の面々がたたずんでいた。それでどうしたことかと車をおり近づいて尋ねた。「どうしたんですか。」。片岡課長補佐「宇和島の商店街を清家会長とともに踊り指導隊が最後のだめ詰めとして踊り、PRを終えたところです。」。最後まで全力を尽くす清家会長さん、片岡課長補佐、片岡係長、踊り隊の方々に心から感謝した。

それではこれまで力を尽くして頂いた清家会長に感謝を込めてみんなでここでじゃこ天踊りをしようとなった。踊り「ヒュー」のかけ声で明日の絶対の成功を願った。

 

(退職時に頂いた清家会長、井野課長補佐、片岡係長、踊り指導隊の方々との成功

を祈っての店頭での踊りのイラストと寄せ書き。このように多くの職員の願いの中

南予活性化は進められた。)

(つづく)

カーニバル当日となった。少し早めに商店街を散策し状況を観察した。人出がやや多いかなという程度であった。驚いた事に加戸知事さんの奥様が車椅子を押しているのにお会いした。又藤岡企画調整部長(当時、後教育長)さんも来ていただいていた。ありがたいことに皆さん心配をしていただいていたのだ。石橋市長さん、新津商工会議所会頭さん、清家会長、島原蒲鉾協同組合理事長さん、林組合長さん、浅田さんと顔を合わせ挨拶を交わした。産業祭りが終わりいよいよじゃこ天カーニバルが始まることとなった。島原理事長、清家会長、浅田さん、司会の楠葉さんとともに壇上に上がった。壇上に上がると続々と人が押し寄せるのが見えた、島原理事長さんの挨拶が終わり楠葉さんの出番となった。予想以上の人出と少しトラブルがあったので珍しく緊張感からか楠葉さんが動揺を示した。「落ち着け。」と彼にいった。さすが楠葉さん調子を取り戻した。流れに乗って来たので私は静かに壇上を降りた。後は信頼をした司会に任せるほかはない。会場は津島高校のバトンガールの皆さんのパフォーマンス、玉井合唱連盟理事長さんがお世話をした松野町の若いメンバーの演奏などが行われていた。

そして牛鬼が練り歩き、じゃこ天の歌大合唱、踊りで会場は興奮で熱気に包まれた。

牛鬼のじゃこ天撒きで興奮は最高潮に達し、ついに成功の内にフィナーレを迎えた。安堵された島原理事長さんが「成功しすぎましたね、第2回以降が大変ですね」と話された。私は事故もなく終えた事に感謝し、お会いした清家会長に「お世話になりました。」とお礼を述べた。家路につきながら多くのご尽力をいただいた方々の事が思い出され胸が熱くなった。

(エピローグへとつづく)

南予地域活性化の経験を踏まえ二つの事を提案した。

一つは活性化の推進に当たり井野課長補佐や片岡係長のように変則的な行動に期待するのではなく、局長が直接指示出来る正規の組織だ。これは人事課が地域政策課として実現となった。ここから多くの方々が羽ばたいて行くのを見、大変嬉しく思っている。もう一つは地方局の独自予算だ。じゃこ天カーニバルは0予算と私が言っているが正確にはそうではない。県は0予算だが、宇和島市役所、蒲鉾協同組合、JA宇和島南などの参加して頂いた団体はそうではない。さすがにこれでは地方局としては今後立場がないとともに自由に使える独自の予算がなければ地方局は人材はいるのに単に県本庁の下請けで終わる、と言う事で部長地方局長会議で地方局の独自予算を提案した。全員が反対した。私もこれは覚悟をしていた。新たなことに取り組むには反対論は必ず起きる、それは覚悟しなければならない。だだ全員が反対はさすがに予想外だ。正確には一人を除いて・・・。「困りましたね、困りましたね、うーん何か良い方法はありませんかね」と加戸知事さん。これが認められなければ地方局の存在価値はなくなる。必死で訴えた。私の悪い癖だが必死になりすぎる。見かねたように吉野内副知事さんが「お前はだまっておれ。」と大声で一喝された。しんとなった。その時ある部長さんに救いの手を差しのべて頂いた。「私のところで予算化します。」。感謝した。これは実は大変な事なのだ。係で論議し、課で詰め、部内の会議で決定した結論を持って来られている。部に帰れば部内を説得しなければならない。今考えれば吉野内副知事さんの一喝は絶妙のタイミングであった。ひょっとすると加戸知事さんと示し合わせて頂いていたのかも知れない。

 

伊予三島県事務所三島出張所から県本庁の社会福祉課に配属された。福祉の時代と言われ脚光をあびた新しい課である。課長さんが藤井課長さん(当時、後副知事)44歳で県庁史上最も若い課長さんである。当時は県本庁ではなかなか係長になるのさえ難しく47歳でなれば普通の時代で、出先の課長が県本庁に赴任すれば係長になるがそれでも栄転と言われた時代だ。いかに抜擢かが分かる。エリートの藤井課長さんだが若い私たちに「君」ではなく常に「さん」付けで呼ばれた。係長さん以上の管理職が藤井課長さんのみな年上なのでいい人ばかりであったがやはり遠慮があったのか若い私たちと膝をつき合わせて話すのを喜ばれた。勢いに任せ「我々が新しい県庁を創る」と息巻くと楽しそうに「その時は私も仲間にいれて下さい」と話された。生き方をお教え頂いた。

 

秘書広報課の時、番町記者クラブのお世話で白石知事さんが記者会見をされると配席表を作成し知事の前に置く。私は悪筆なので急いで書くと自分の字が読めないほどひどい。ある日言われた「知事が四之宮君が書いた配席表をくるくる回して見ながら結局脇に置いてしまったぞ。」

 

電話がかかり取った「課長さん、春枝さんと言われるかたから電話がかかっています。」

「ばか、知事の奥様だ」。

 

K課長さん「四之宮君にもう少しお上手があればいいのにねー。」

 

普通の勤務評定であれば失格だ。それでも秘書広報課から自ら出さして下さいと言うまでは出されなかった。他の人を評価するときはこの時のことをいつも頭に浮かべている。

 

市町村課時代、笠崎係長さんと一杯飲むかということで割烹「つげ」に向かった。のれんをくぐると驚いた。そこには清家企業長さん、伊賀調整振興部長(当時、後知事)さん、藤井調整振興部次長(当時、後副知事)さんがおられた。ひるんで逃げようとすると伊賀部長さんが「なんで逃げるんだ。こっちへきて飲め」と言われた。それで身を固くして飲んでいると言われた。「ものを言わないのは馬鹿と同じぞ。」この言葉は誠に的を得たお話であった。これまで私は周囲の状況を気にする余り本音で話すことは余りなかった。それから少しずつそれに取り組んで行ったが環境衛生係長で本音の大切さを知ることとなり事に当たれば自らの考えをそのまま話せるようになった。今でも私が真面目一点ばりだと思っている人がいる。それにしても伊賀部長さんはお仕えしたこともないのになぜご存じであったのだろうか。

 

総務商工課商工業係長の時代まだ人間的に未熟であった私は、永野課長補佐(当時、後出納長、高須賀課長補佐(当時、現東温市長)さんにご迷惑をおかけした。

ただ、素晴らしい課長、眞田課長さん(当時、後農林水産部長)にお仕えした。それは事に当たって決して逃げないことだ。ご迷惑をおかけしたがこういう方を見ると人生に希望が湧いてくる。宇和島地方局の時あることが起きた。OBとなられていたが連絡をとって尽力頂き解決を見た。

 

話を元に戻す。加戸知事さん、吉野内副知事さんに支援頂いたのはこの時ばかりでない。数度であるその度に「困りましてね、困りましたね、何とかなりませんかね。」と私の提案を頭からだめだとは決して言われない。そして粘り勝ちをされる、私ではなく加戸知事さんがである。

新たな提案をするときなぜこの様に支援頂くのか理解することとなる。お送り頂いた我が流儀は「加戸流」を読ませて頂いた。文部科学省、著作権協会で実に多くの改革をなされていたのだ。

じゃこ天カーニバルは県庁生活で身につかせて頂いた全てのことを使い行動した。県本庁にも相談しないである。ようは勝手な行動ともとれる。様々な話が伝わっていたと思われるが知事から「やめろ」とは決していわれなかった。県庁生活では勝手と思われる行動をしたことはかなりある。どうしても目的を達成するためには従来の延長線上の考えでは実現できないことがあるからだ。でもやめろと言われたことは余りない。ありがたいことにトップの方々とか権限ある方々が黙認をして頂いたものと思う。簡単な話宮仕えの身トップがやめろと言えばやめざるを得ない。最後はトップの決断にかかっているのだ。

元に帰る。清家会長を囲む会で石橋宇和島市長さんにお会いした。すると市長さんが「今度は外国に行くのでカーニバルに参加出来ません。」。まさしく本音でお願いする時だと思った。お分かりのようにこのカーニバルは実に多くの方々の熱い思いが結集されている。灯が消える恐れがある。「市の支援が必要です。特にトップの支援が必要です、お願いします。」

じゃこ天カーニバルの日を迎え参加をした。直前に市長さんにお会いしたので、願いを聞き入れて頂いたお礼を述べた。カメラで連舞を撮影していると、黒い法被を着た実に多くの人々からなる集団が突然カメラのレンズに入った。驚いてなんだろうと良く見ると宇和島市役所の職員の方々であった。感激をした。この一連の事柄を清家会長に後にお話をした。「私も何で市長さんがあんなに長く最後までおられたのか不思議に思っていました。」

 

 

 

三好宇和島地方局長さん、職員のみなさんも本当に楽しそうに笑顔で踊られていた。私が初めてガイヤの踊りに取り組みなかなかうまくいかないで渋っていたとき誰かに言われた。「四之宮さん、踊りは笑顔、笑顔ですよ。」

 

最後に清家会長がいつも言われていることを書き終りとする。「若原、渡部、高魚、山本、三好の歴代の局長さんみなさんがありがたいことに熱心にガイヤカーニバルに取り組んで頂きました。」。

愛媛県庁OB元部長さんから温かい励ましの言葉を頂きました。厚くお礼申し上げます

 

 

 

(終わり)

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