
平成25年11月10日(日)
第8回宇和島じゃこ天カーニバルに行きました。
宇和島市民の皆さんが心から楽しんでおられました。じゃこてんカーニバルは宇和島市民の皆様の底力が発揮されたものと思います。なぜならこれは0予算で始まったものそれを第8回まで続けられました。島原前理事長さんが第2回以降これからが大変だと常々おっしゃられておりました。関係各位、市民の皆様の並々ならぬご尽力が実を結ばれたものと思います。
宇和島の祭り男が揃い踏み
笑いがあふれてます







酒まんじゅうを購入しようとしたとき、宇和島じゃこ天の歌を作曲された宇和島ユースホステル支配人厚浅田さんが通りかかりましたので写真撮影をお願いしました。













宇和島信用金庫の青い牛鬼です。地域活性化を目指し作成されました。

























カメラの前を多数の黒の法被集団が通りました。宇和島市役所の職員のみなさんでした。




















第1回宇和島じゃこてんカーニバルが開催されるまで



















愛媛県合唱連盟主催の四国合唱コンクールの運営をお手伝いしていた私の妻が、伊予銀行合唱団のコンサート(宇和島市南予文化会館)で、地方局がじゃこてんの歌を歌わせて頂いた時のお礼を述べているのを側で聞いていた玉井恭介理事(当時)が、「楽譜はないか」と妻に訊ねられた。妻が「宇和島地方局にあるかもしれない。主人がじゃこてんで地域興しを考えていると聞いたことがある」と答えたところ、じゃこてんの歌で地域の活性化を考えていた玉井さんは直ちに私のところを訪ねて来られ、「じゃこてんで地域興しを考えている、楽譜はあるか」と話された。じゃこてんの歌は宇和島ユースホステル支配人浅田康路さんの作詞、作曲であるが、楽譜がなかったため、必要になると思い私の秘書であった芝(旧姓、現山内)さんに「だれか楽譜を創ってくれる方はいないでしょうか。」とお願いしたところたまたま彼女の友人に音楽に携わっている女性がおりボランテイアで完成して頂いていた。また、この楽譜は宇和島地方局職員有志が、一年前、南予文化会館で開催の、伊予銀行合唱団による定期演奏会の、貴重な時間を割いて頂き地方局山内係長(現御荘林業課副参事)の指揮によるじゃこてんの歌を発表した時のものでもある。多分歌がステージで合唱されたのはこれが初めてではないかと自負している。「あります。宇和島商店街の長いアーケードを使って、歌い、踊り、ぜひやりましょう。協力していただける団体の紹介をお願いします。」と答えた。
私はこのイベントは成功すると確信していた。なぜなら、一年間の宇和島生活で、この地域の持つ底知れぬ潜在能力を実感していたし、これらの人材を活用してのイベントのイメージは、私の頭の中にすでに存在していた。このチャンスを逃してはニ度と機会は巡ってこない。実行あるのみ、と思った私は、当時、南予地域活性化現地対策本部の実働部隊の実質的責任者であった井野(現南予地方局総務県民課長)課長補佐を呼び、口頭でゼロ予算での計画案を説明し、島原蒲鉾組合理事長(当時)にお越し頂くよう連絡を依頼した。この時8月末、イベント開催日よりわずか2カ月前であった。

2005年11月23日 南予文化会館
(つづく)
井野課長補佐は、私が宇和島地方局に赴任してから1年間、南予地域の活性化の中心となって、活動してもらっていた。彼は、私の無理とも言える数々の指示を、これまで全力を尽くしてこなしてくれていた。彼の上席には課長、部長が存在する。階層組織である公務員の中では、それらの方々の理解を得ながら、私の直接の指示を実行していくのは、そう簡単なことではない。その彼がその後ずっとじゃこてんカーニバルの実現を目指し、私の片腕となって活動してくれることとなる。後から聞いた話では、彼が余りにも「宇和島じゃこてん、宇和島じゃこてん」と言うものだから、奥様が「どうかいい加減やめて欲しい」と懇願されていたと、お聞きした。知らなかったのだが、実は彼の奥様の実家は、八幡浜市の中心街でも有名な、八幡浜じゃこてんの販売店であった。私のこのやり方は、組織社会では余り誉められたものではないかも知れない。また、にがにがしく思われた方もおられると思う。しかし、この方法を保健福祉の統合、市町村合併、リサイクル施設の愛媛県の誘致にも取っていた。新しいことに取り組むには、不安感と周りからのプレッシャーがものすごい。これに立ち向かえるのは、単に頭のよさとか地位とか肩書きとか一緒に酒を飲んだとかは、別のところにあると実感していた。
また、当然失敗は許されない。周囲に大変な迷惑をかける。単に頭を下げ「ごめんなさい」ではすまされないからだ。だから、こういう時に私にとっての背水の陣は、この方法であった。
これを身につけたのは環境衛生係長の時代である。料理飲食、旅館、ホテル、理容、美容組合など、サービス産業の方々とお付き合いした時である。保身のため公務員はどうしても責任をとらされないように建前論のやりとりに成り勝ちになる。私が建前論で格好良く話せば話すほど、業界との関係がどうもギクシャクする。悩んでいた私は業界のある方の言葉で目が覚める。「私たちは、補助金を潤沢に頂いているわけではない。腕一本で生きているのだ」と。
このような方々に建前論で話しても、すぐ正体はばれてしまう失礼だ。それからは目が覚め、積極的に本音で話すようにしたところ、少しづつ円滑に進むようになった。また、この係長時代に、新しい補助金制度を創ろうとしたがどうしても旨く行かず、四面疎歌に陥ったことがある。そのとき最後まで支えてくれたのは、私の若いNとSの2人の係員であった。もしあの時、彼らの最後までの、献身的な支えがなければ、それからの私の県庁生活は、全く別のものになったであろう。またこの時代、宇和島にかどやの清家ありとも耳に伝わって来ていた。その清家会長と14年後運命的なお付き合いをすることになろうとは当時知るよしもない。
保健福祉の統合、市町村合併、リサイクル施設の誘致に携わったが、その時々に不思議に私を本気で支えてくれる若い人々が、現れてきた。南予地域活性化、この実行時に、その役割を果たしてくれた一人が、井野課長補佐である。私は決して面倒見が良くはない。恩返しを彼らに出来ているわけではない。今は、自らの力で彼らが生きるよう願い心から感謝をするしかない。
とにもかく、私の県庁時代の行動の原点は、この環境衛生係長時代であった。
この経験を重ねたお陰で、新たなことに取り組むに当たって、信頼できるか、頼りにできる方かどうか、直感的に分かるようになったと思う。
幸運なことに心から信頼でき頼りにしても良いと心から思ったこのお一人がまさに島原前理事長さんであった。
(つづく)
背水の陣を敷いた時の仕事遂行のシステムは、南予地域活性化現地対策本部の業務推進の時が初めてではない。私は常に何か新しいことに取り組みたいと思っていた。そうした時に不思議にすばらしい若い人材が現れた。単に頭脳がいいだけでなく公務員がもっとも不得意とするチャレンジ出来る人材だ。その一人がO主事(当時)だ。彼は私が初めて市町村係長として赴任した時に係員となった。O主事の凄さは私がやりたい新たな取り組みをいとも簡単に成し遂げてくれることだ。
選挙投開票日には沢山の人々が集合し朝早くから、夜遅くまで集計事務に携わっていた。それも何人もの人々が電卓でチェックしながら集計事務をする。当時はよく選挙訴訟があり、本当に神経をすり減らして緊張しながらの業務だった。そこでこれをパソコンで集計出来ないものかと彼に持ちかけた。パソコンのソフトは当然まだWINDOWSではなくLANPLANである。パソコンなどほとんどなじみのない海のものとも山のものともわからない時代だから周りは失敗したらと不安のあまり、拒絶の状態である。票の按分をどのようにプログラミングするかそこが一番の課題だと私は思っていた。当時は県本庁に権限が集中していた時代、出先機関でこのようなことをするというのは本当に勇気がいる。それでもなんとか周りの同意を得て実施することとなった。投開票当日そのプログラミングで集計が始まった。予想以上にスムーズに投開票の集計が終了した。多分従来の5分の1程度の力で出来たと思う。おっかなびっくりで今まで否定的であった周囲の人々もこれは良い今後も是非これでやろうとなった。そして彼が作ったプログラミングは県本庁、県下の地方局で使われるようになる。
そして、次は市町村決算統計である。市町村財政の決算状況をとりまとめる業務で交付税算定の基礎となる。これが大変で神業的なやり方で朝から夜遅くまで電卓をたたいていた。
これを、パソコンでできないかと彼に持ちかけた。すると、O主事はいとも簡単にプログラミングをした。そして従来の業務が5分の1程度に縮減できた。あの電卓での困難きわまりない集計があっという間に目前の白黒画面でデイスプレイした時には感動を通り越し慄然とした。また、これも県本庁、各地方局で取り入れられた。
そして次は選挙啓発である。当時民俗芸能が盛んであったので、正月選挙でめでたいことでもあり獅子舞などで啓発をしよう、場所は人が集まるまつ地下タウンから出発しようと彼に持ちかけた。
彼もやりましょうとなったが実はまつ地下タウンではこのようなパフォーマンスは今まで許可されたことがないとのことで実現は大変困難であったらしい。しかしまたもや成し遂げる。正月の日に重信の獅子が迫力満点で高らかに舞う姿を見た時は胸が熱くなった。
そして17年後市町村課でまた彼と出会う。彼は係長になっていた。当時の大きな事業は市町村合併と衆参同日選挙の電算化だった。
衆参同日選挙が急遽決定し準備に追われていたが私は市町村合併関係で外に出ることが多く選挙関係は任せていた。
そのような状況の中、O係長に活性化のため今治タオルを活用して県庁前への横断幕の掲出は出来ないかと持ちかけた。一番心配なのはタオルが雨の日だと水分を吸収し重たくなりずり落ちる懸念があるとのことだ。彼は今治の繊維試験場に何度も足を運びこれを見事に解決した。
そして心配していたことが現実に起こる。電算化への対応だ。当時まだ県庁はワープロの時代でパソコンへの認識がない。私は保健福祉の統合の時人事に携わったが全員異動するという大幅人事にはパソコンしかないと思い独力でイクセルを学びそれからずっとパソコンを使っていた。パソコンに不具合はつきものだ。なんども実証しなければ安心して使えない。ボタンを一つ押せばすべてが自動的に出来るわけではないのだ。それで、なんども外出する前にインプットからアウトプットまで実証するようにといっていたのにそれをしていなかったのだ。結果、投開票3日前に突然同日選挙に方々で使われるためプリンターがないと報告をしてきた。困った私はO係長に相談する。その夜私が対策を考え翌日彼に言ったことは偶然彼の自身の考えと一致した。県庁中からプリンターを調達することだ。それはO係長には管財課の経験がある、彼なら対応してくれると思ったからだ。そして見事に対応してくれて事なきを得た。
このようなことでは所掌事務は理解していても投開票システムそのものはまだ十分理解できていないな、と危惧を持った。人間なら間違えば自主的に正せるが、電算はそうはいかない。システムエラーが生じれば人間である誰かか迂回策を指示しなければ取り返しのつかないことになる。それでO係長に当日は私の横にいてシステム全体と現状の流れを私と同時に頭にいれてもらうように頼んだ。これが大きな危機を救う。投開票事務が始まりしばらくしてどこかの市町村に問題が発生した。それに対する記者の問いかけに私が直接電話口に出ざるを得なくなった。更に問題が起きた町村の集計事務が滞ったことで県本庁のシステムにも混乱が生じていた。私が電話に出ている間O係長はこれに適切に対応しシステムダウンを危機一髪で回避した。私は九死に一生を得た。
彼のすごさはこれらの指示をいつもいとも簡単に私の意図以上に成し遂げてくれたことだ。そのときの私の指示はいずれの時も10分にも満たない短いものだ。それで理解してもらえる。私にとって不毛な反対のための反対の議論はする必要はなくこれほど心強いものはなかった。
実は、私がじゃこ天カーニバル遂行に当たっての宇和島の人々に対するお願いもシンプルで短時間であった。それを特別な議論もなく瞬時に理解され引き受けていただけるほど皆さんが実力者だったのだ。それでなければ2ヶ月という短期間で成功出来るわけがない。
(つづく)

(島原理事長さんはじめ多くの宇和島市の方々が松山観光港でイベント)
私たち夫婦は3月末宿舎に行くため車で宇和島に着いた。宇和島の地は初めてである。夕食の用意のためとある店舗でなにげなしにじゃこ天を購入した。そして宿舎でそれを食べたときそのおいしさに夫婦ともども驚愕した。それは今まで松山で食べていたじゃこ天と思っていた味とは全く別物であった。そのうまさの秘密はどうしてか大変興味を持った。ある日島原理事長さん(当時)が宇和島じゃこ天について語っている記事を見つけた。それで地方局にお越し頂きじゃこ天のお話をお聞きした。歴史に始まり、原料は小魚のはらんぼであることなど、穏やかな温かみのある語り口で懇切丁寧な説明を頂いた。おもしろさのあまり時間は知らぬ間に1時間を超えていた。その後和霊公園で私や地方局員の有志がじゃこ天踊りをパフォーマンスしたり、南予文化会館でのじゃこ天の歌合唱などにより親しくお付き合いをさせて頂くこととなった。
井野課長補佐の連絡によりお越し頂いた島原理事長さんはやろうという意味を込めて「薬師神専務(現理事長)や組合員の皆さんに相談します」。と静かに答えられた。大変な決心であったと思われる。計画書も予算もないしかも2ヶ月ばかりの話である。しかし「是非やろう。」とのニュアンスで受け取った私は翌朝宿舎の裏、大超寺奥にある宇和島ユースホステルに浅田さんを訪ね了解を得た。島原理事長さんは、その後私が宇和島を離れ、松山観光港に勤務したときもお越し頂き経営に関して指導いただいたり、宇和島市役所の方々や多くの宇和島市民の方々とともにイベントをしていただいた。そのとき自らがじゃこ天をあげていた。「どうしてですか。」とお聞きしたところ「お客さんの反応を知るため。」と答えられた。
そしてカーニバルの第2回目以降終了すると安堵したように「終わりました。」と携帯電話に連絡を頂いた。極めつきは島原理事長さんが叙勲を受けられ全日空ホテルで祝賀会が開催された時、案内頂いた私がホテルのエスカレーターを降りた途端会場の入り口から走るように私のところへ来られご夫妻ともども挨拶に来られたことであった。
私は、恐縮するばかりであった。
これが宇和島男子である。島原理事長さんとはこういう方である。
地方局にお越し頂いた後、理事長さんはカーニバル実現に向け厚い人望と力強い指導力で成功へと導いて頂くこととなる。
そして、私は島原理事長、浅田さんとお話した後、井野課長補佐を呼び状況を説明するとともにかどや清家会長に協力を頂くためお越し頂くよう伝えた。

島原前理事長さんが松山観光港に来ていただいたとき、この北高架通路の活用に関してご相談したところ、上部は景観を遮りだめなら下部を利用したらとのヒントを与えて頂き、全国の観光ポスター、パンフレットを掲示・展示することを思いついた。これであればオンリーワンだ、最大時500枚を掲示した。これも0予算であるが、お陰で全国の観光に取り組む姿勢が実感出来た。集めるには際しては自治大学校の同期生、東京事務所にお世話になった。京都、奈良、岩手県など本気で取り組んでいるところは電話依頼すると翌々日までには必ず届いた。岩手県の話「ポスターを掲示していただけるところがあると言うのは大変ありがたいことです。当たり前のことです。」。長い通路であるので管理が大変であったがありがたいことに住民の方々が管理するのを手伝っていただけるようになった。ポスターの掲示の重要性は宇和島地方局で実感した。それは後ほど述べるが、じゃこ天カーニバルでは清家会長と2人で管内を車でポスターを持参して掲示いただけるような場所を探し掲示のお願いに回った。楽しい思い出だ。
(つづく)

第1回じゃこ天カーニバルの
清家会長と地方局職員
かどや清家会長、現愛媛県中華料理組合副理事長、元愛媛県料理飲食等組合副理事長、宇和島、松山で飲食店を持ち、この8月には東京西麻布にも出店した。南予地域で知らない人はいない。年期の入った自転車に乗られ、私の娘に言わすと少年のようなきらきら輝く瞳が特徴だ。赴任間もないある日清家会長が私の部屋に来られ「無名会」への参加を依頼された。宇和島市の経、官、大学、マスコミ、団体などの方々からなる毎月の集まりだ。これへの参加が初めての赴任地であり、地縁、血縁もない私にとって地域、人々を知る大きなきっかけとなった。それからのお付き合いである。お越し頂いた会長に玉井さんからの話と、島原理事長、浅田さんにお願いした件をお伝えし、また、大まかな案をお話しした。引いては多くの市民の方々に参加を呼びかけたいが時間もないので直接団体のトップに依頼する、同行をお願い出来ませんか。そのとき手ぶらでは理解されないと思いますので手作りのポスターを持参し説明をしたい。図案は宇和島出身者の汽笛一声新橋の鉄道唱歌を作詞した大和田建樹さんです。当然資金のあてはありませんから0予算です。この地域には優れた皆さんがおられますから力を結集すれば絶対成功します。」。大きな事業はトップダウンだ。経験上下からあげると途中で止まり絶対上がらない。この地域のトップは必ず成し遂げて頂ける。この地域の方々は伊達藩の影響かそれぞれの人が何か得意なものを持たれている。それを活用すれば成功すると私は確信をしていた。「あの長い立派なきさいやロードを歌い、踊りましょう。」。「そうですらいな、やらんといけませんな。」と承諾を頂いた。この後清家会長さんには中心となって尽力頂くことになる。蒲鉾組合関係は長老もおられるが絶対島原理事長さんがまとめて頂けると確信をしていた。音楽関係は玉井さんがやって頂けるだろう。
そのあと、すぐに井野課長補佐、片岡係長(現南予地方局地域政策課長)、G主事を呼び状況を説明するとともに、ポスターの作成を伝えた。片岡係長、G主事は二人とも南予地域の活性化のためこの一年間献身的な働きをしてくれていた。片岡係長はすでに井野課長補佐から私の考えを聞いていたのであろう。「0予算ですか。予算がないと事業は出来ないでしょう。」と詰め寄って来た。井野課長補佐「みんなが反対しています。」私「みんなが反対するからこそオンリーワンだ。成功する。」と答えた。実際予算があるから成功するとは限らない。金を頂くことと引き替えに多くの人々の意見を聞かざるを得ず、結果当たり前のことしか出来なくなる。井野課長補佐の苦しみは良く理解出来た。彼には課長補佐の権限しかない、しかも局内全てをまとめるのだ。周りからのプレシャーは相当なものだ。私は後半年後に定年を迎える、私についていても何も得をすることはない。だからこそこれをやれる人間は地位、肩書きとは別のところにある。私が尊敬するJA南の林組合長(後の愛媛県農業協同組合中央会長)さんも特産品センター「みなみくん」を立ち上げるとき述べている。「みんなが賛成するものは成功しない。それはすでにどこかでやられていることだ。自ら燃えて人を燃やせ。」と。
図案は大和田建樹の肖像を使用する。画は教育事務所の美術の先生にお願いする。と伝えた。そして井野課長補佐に宇和島市の祭り男楠葉拓史宇和島市役所牛鬼保存会会長にお越し頂くよう伝えた。(つづく)
宇和島市役所牛鬼保存会会長楠葉拓史、山下丸穂牛鬼保存会名誉会長(後ほど登場頂く)が一目置く存在である。このお二人は宇和島牛鬼祭りのほか代表的な宇和島のイベントには必ず登場する。このお二人が登場すればイベントは活気づく。南予の青少年のあこがれの的となっている。知り合ったのは一年前の8月のある日楠葉さんが私の部屋を訪れた時からである。当時私の部屋は多くの方々と知り合うためオープンにしていた。それと彼が私を訪ねる気になったのは多分次のようなことからであると思う。宇和島に赴任してから2ヶ月が過ぎた頃女性職員がガイヤカーニバルへの出場依頼に来た。地域の活性化を2年計画で描いていた私はまず地域の方々に私の顔を知って頂くことだと考え様々な会議に出席をしていた。作詞作曲は宇崎竜童、振り付けはピンクレデイーの土居甫氏によるハードな踊りだが良い機会だ。それで出場を了解した。そのとき私のためにと秘書の山崎(旧姓大平)さんがたすきを創って頂いていた。そして当日旗を振りながらたすきを掛けきさいやロードを踊った。登り坂の道は思った以上にきつかったが変わった人だと印象づけることにはなった。それを見た彼は興味を持ったのであろう。彼はそのとき熱く牛鬼について語った。そして彼が書いた新聞の連載投稿記事のコピーを頂いた。そこには牛鬼に乗るために毎日体力を維持するためジョギングをすることなどが書かれていた。その後イベントがあるごとに彼の勇姿を見させて頂いた。それで何かことあれば必ず彼に援助を頼もうと思っていた。まさに時来たれりである。
そこで、彼にじゃこ天カーニバル開催計画の経緯と出場の依頼をした。ところが元気ものの彼が思いもかけず難しい顔をして「井野課長補佐が困っている。このまま続ければ大変なことになる。」と返事をした。計画書もない、しかも0予算だ、時間もない、冷静に考えればそれが公務員としての正常な考えであろう。私は彼の出場が成功のキーポイントであると考えていた。彼に当日司会をお願いしようと考えていた。イベントがいざ始まれば何があれ仕切るのは司会だ。一年間の付き合いで彼ならやれると確信していた。どうあれ私には成功へのイメージがすでに出来あがっている、彼自身もまだ気づいていないようだがこの地域には私が出来ないことが出来る多くの人々がいる。これらの方々の力をお貸し頂ければ成功間違いなし。また0予算だから承認頂く人が少なく決断実行が早くできる。
また、このカーニバルが本当に成功するには、山下丸穂牛鬼保存会名誉会長、楠葉宇和島市役所牛鬼保存会会長のダブルスタンダードに出場頂くことは必須条件だと思っていた。なぜなら、この地域には牛鬼は絶対の存在だからだ。
やりとりの結果私は彼が了解していただいたものと思っていた。
数年後笑い話となったが、どうもその後楠葉さんは清家会長を訪れたとのこと。そして会長に「四之宮さんは誰の言うことも聞かない、清家会長の言うことなら聞くと思う、思いとどまるよう言って下さい。」すると会長は「四之宮さんを助けなさい。」と一喝したそうである。こう見えても私は様々な修羅場を経験している。絶対成功すると確信出来る人以外には頼まない。


(つづく)
山下丸穂牛鬼保存会名誉会長。宇和島牛鬼の象徴、別格である。伝説的な様々なことを成し遂げている。周囲から極めて困難であると思われたが、自らの責任で先頭に立ち愛媛丸で亡くなられた方々のためハワイにおいて宇和島牛鬼で鎮魂をされた。総合庭園 山下造園を経営されている。また、長年消防団活動にも取り組まれている。高知県香南市のどろめ大会で2度の優勝。2度目は今年度だ。一升の杯を13秒6で飲み干した。1度目の優勝は8秒余りであったと言う。私が「すごいですね。」と言うと「四之宮さん、それだけでは尊敬されない、その後皆さんからのお祝いの献杯を全て受けて初めて認められる。」と。山下さんと付き合いが始まったのは宇和島市の消防団の総会であったと思う。当時消防団の副団長、そこで宇和島牛鬼の話を熱心にされたので強烈に印象に残っている。その後伝説的な存在であることを知る。じゃこ天カーニバルには絶対欠かせない存在だ。それでご自宅にお伺いし要点だけ話し牛鬼のパフォーマンスをお願いした。手には何も持っていない。口頭の説明である。するといとも簡単に「宇和島のためにやっていただけるのですね。ありがたい、力になりたい。」と即座に承諾を頂いた。多分不思議に思われるだろう。ご自身、仕事も持っておられる、牛鬼を担ぐ人々も必要だ。普通なら即答出来ない。それが出来る。私はうれしさの余り深くその時は考えなかったのだが、その後理解する。松山観光港でのイベント開催の時にもお願いに行ったがその時も「分かりました。」と即答である。観光港では理由があり休日にはイベントが制限されていたため平常日である。自らはもとより牛鬼を担ぐ方々は若い働き盛りの人々だ、休日を取らなくてはならない。経費もいる。それが即答出来るとは。山下さんは言う「助けがいるときはいつでも言って下さい。」、この山下さんの言葉は単なるお世辞のあいづうちではないのだ、山下さんの言葉は、責任を持って引き受けたとの誠そのもなのである。宇和島の活性化、牛鬼のためには心底命をかけている人からしか生まれない重みのある言葉だ。それに気づいたとき私は心底慄然とした。
今も清家会長を囲む会で中心をなしていただいている。ありがたいことである。
こういう方々にお話をするときはペーパーは不要である。瞬時に理解される。そして不毛な出来ない理論でなく成功するためにはいかにするか。それに専念していただける。私がこれから声をかけようとする方々はそういうトップの方々ばかりであった。だからこそ、成功をイメージ出来ていた。それに宇和島牛鬼の助けも得ることが出来たのだ。

(つづく)
宇和島の底力を本当に知っている人々は少ないような気がする。経済は疲弊化し、なにもないようなことが言われることが多い。多分これは宇和島の男性は寡黙で外に向かって自己アピールをするのが不得意からかも知れない。実は私も良くは知らなかった。商店街は寂れ何も無いとの言葉を信じていた。バイクに乗り始めたころ朝早く起き足摺岬などに日帰りツーリングをしていたが、丁度宇和島で朝9時過ぎになる、休憩も兼ねて朝食を食べていた。昔ながらのラーメンを食べさせて頂けるお店がその時間帯でもオープンしているので良く利用していた。宇和島には駅前以外には食事するところは何もないということがインプットされているのでこんなものかと別に疑問も抱かなかった。ところが宇和島に赴任して一変する。様々なものが存在するのだ。宇和島駅前のすぐ近くの辰野川沿いに早朝5時から開店するうどんやさんがあったりする。そこを早朝から市長さんとか商工会議所会頭さんとか市民の多くの方々が昔から利用され情報交換するコミュウニテイーの場となっている。セルフサービスだ。それと喫茶店が沢山ある。多分今松山市以外県内の市町村で商店街から歩けるところに喫茶店が存するところは少ないと思う。地方局にいた当時調べた限りでは人口当たりの喫茶店数は松山についで多かったような気がする。ただ、商店街から少し離れている。又入り口がけばけばしくなく狭い。ドアを開け入ると中は想像以上に広く趣味の良い家具が置かれていて驚かされる。喫茶店によっては朝早くから開けられており、ここも市民のコミュニテイーの場となっている。コンビニではない個人商店も多い、ホータレいわしのさしみとか新鮮な果物をおいており安価で実に美味い。お年寄りの方には便利だ。おいしい個性的なラーメン屋さんも数軒ある。お好み焼き屋さんも美味い。祭りも多い。ボーン、ボーンと音がするからなにごとかと思えば旗火の音、祭りを知らせる音である。これが頻繁にあるから驚きだ。また、それに伴いもちまきがある。私の運転手をしていただいたNさんがついたもちは美味しいと評判で方々から餅つきの声がかかるが駆けつけることを全くいとわない。ボランテイア精神が旺盛だ。方々に寺がある。クリスマスシーズンになると個人の家を電飾で飾るところもある。これは実に豪華で見れば本当に驚かされる。多分松山市の花園町の電飾に勝るとも劣らない。しかしそれを誰もPRしない。個人の楽しみで終わる。本を書かれる方も多い。様々な研究会がある。
それと女性の方々が様々な習いごとをしている、半端でない。お茶、習字、そろばん、華道、着付け、美術、舞踊、裁縫など・・・。
私の妻はお世話になっていたクリーニング屋の奥さまは両手一杯の習いごとをしている、なんでもできる方だと感心するばかりであった。
そればかりかこの奥様ラーメンまで打ち美味しいと評判のため市内の多くのお店におろしていた。娘のところに宇和島からの女性の方がお客でこられることがある。宇和島の方の習いごとの身に付けていることの多さを話すと「そんなこと当たり前と違うの。」と答えられたとのこと。
日本政策投資銀行の藻谷さんが宇和島の活性化ということで講演にこられたことがあった。世界各国の地域活性化を見ているということで大変興味を持って参加した。残念ながら多くの方々と同様宇和島には何も無い。商店街が寂れている。何も行動しないとの話になった。私は強く反論した。そのため少し座が白けて終った。ほとんどの調査にこられた方々は1-3日で駅前、商店街だけを見て終わる。なにも見ていないのだ。宇和島の真の姿は商店がから少し離れたところにある。ただ、けばけばしくしないから本当に分かりにくい。
宇和島の方々はなにも行動していないのではない。祭りなどは今ほとんどの地域で年に1回もするのがやっとだと思う。それを驚くほどにたくさん催す。それを支える人々が現に行動をしているからこそ可能なのだ。
松山観光港で4回のイベントを行った。通常日だ。勧誘したがどこの団体も申し訳程度の謝礼金では2の足を踏む。まずは、勤務を休んで行かなければならないので日当がいるから始まる。もうこれでアウトだ。しかし、このイベントには宇和島から、愛南町から、鬼北町から駆けつけて頂いた。業者の方々はお店を閉めてまで駆けつけて頂いたと言う。行動力は十分あるのである。
ただ、この地域自らは語らない。「なにもしないですね。」と尋ねれば「そうですらい。」と答える。
忘れてはならないことは、この地域はみかん、真珠、魚養殖の3度の繁栄を経験している。それは私たち東予の水田農家やサラリーマンの家庭がほとんどのところではその豊かさの時代は想像もつかない。思うに宇和島の方々はこの時代と比較されている。
県下の地域でこのような途方もない3度の豊かさは経験しているところはない。宇和島の方々の言葉を額面通り受け取ってはいけない。比較の基準が全く違うのだ。
伊達文化の影響とこの経済の豊かな時代に身に付けたものがこの地域のとてつもない奥深さに繋がっているのではないかと思う。
宇和島は奥が深い。私のこの見方も実はほんの入り口かもしれないと思っている。
この様な地域の方々だから結集さえ頂ければ成功だと確信していた。
ただ松山では、田中政利会長率いる離島振興協会は別格である。松山観光港のイベントに良く参加頂いた。島からの産品を販売するためには船の運送費が必要となるため難しいと思われたが皆さんの島の活性を図ろうとの熱い気持からであったと思う。
それと、遠路鬼北町のキジ鍋祭りに参加頂いたのが思い出である。鬼北町の入舩元課長さんに大変お世話になった。
瀬戸内海の島のさざえ、ヒジキは美味しいと高知県からのお客さんに言って頂いたのには嬉しかった。そう言われているそうである。たちまち完売した。最後のお客さんは観光港にもイベントで来ていただいた故元松浦鬼北町長さんであった。現在私は離島振興協会の賛助会員にならせて頂いている。

豊かなむらづくり全国表彰(農林水産大臣表彰)
全国地域づくり表彰(全国地域づくり推進協議会会長表彰)
離島振興60周年功労者表彰(国土交通大臣表彰)
トリプル受賞おめでとうございます。
(松山離島振興協会、鬼北町きじ鍋祭り参加、皆さん鬼北町に来るのは初めて、逆はあるが松山から南予にきて物産販売をするのは多分これが初めてのことだったのではないかと思う。)
宇和島市民のたくさんの方々が松山観光港に来ていただきました。
今これを書きながら改めて驚きました、これ通常の水曜日です。
イベントを経験された方なら理解されると思います。入り込み客は何人から詰められます。そもそも通常日であれば休まざるをえづ日当を支払わなければならない。費用が莫大になる。それを説得して観光港に来ていただいた。トップに強力なリーダーシップ、行動力がなければ実現は不可能です。津島町、鬼北町からも同じレベルで参加頂きました。改めて南予の皆さんに敬意を表します。このようにじゃこ天カーニバルについても宇和島のトップの方々のリーダーシップを固く信じていました。


宇和島音頭を踊って頂きました。

ぶーたれを吹いています。


宇和島音頭を踊っ て頂きました。

宇和島ユースホステルからも参加を頂きました。

南予地方局からも参加を頂きました。

ダイマサ真珠さんも宇和島の美しい真珠製品を販売頂きました。

松山観光港のイベントにお孫さんと参加頂きました。

宇和島市からかどやさんが鯛めし販売の実演販売をして頂き好評を頂きました。かどや清家会長にもお越し頂きましたが、観光港の客席にずっと座られておられました。「どうしたのですか。」とお聞きすると「お客さんの反応を見ています。」とのことでした。大変感銘を受けました。

これが宇和島だ、の松山観光港のイベントに、愛媛女子短期大学の皆さんに参加を頂きました。愛媛女子短期大学は地域の活性化の為に活動をされていました。先生、加藤高浜自治連合会長、楠葉宇和島市役所牛鬼保存会会長と一緒に撮影。

宇和島市役所の職員の皆様も多数宇和島市から遠路駆けつけて頂きました。
(つづく)
絶対成功するとの確信はほかにもある。地方局に人材が育ってきていたからである。行動しなさいと闇雲に言っても出来るものではない。人間は新しい行動をしようとするとき強烈な不安感にかられる。前に一歩踏み出せば未来が見えてくるのだがなかなか出来ない。この一歩がとてつもなく高い。だから訓練してこの一歩先の世界を見てほしいというのが私の持論である。それでこの一年様々なことに取り組んでいた。まずは、ガイヤカーニバルへの積極的な参加であった。
とりあえずは40人が参加し一応の成果は上がった。次に宇和島の手作りの観光ポスターの制作に取りかかった。バイクで現地を見ているときにあることに気がついた。高知県の観光ポスターが愛媛県内に沢山掲出されていることである。我が県より多い、というより我が県内は自らの行政区域にしか貼られていない。ひどいところでは役場内のみだ。ところによっては5、6年前のポスターがそのまま掲示されてもいた。岩手県からの言葉のように「掲示して頂けることはありがたいことです。」そのとおりである。掲示していただくためには不動産の一角を長期にわたって占有させて頂く。都市部であれば金銭に評価すればかなりの額になるであろう。だから掲示していただくのはそう簡単なことではない、頭を下げなければならない。松山観光港で全国各地、県下の市町を相手にポスター掲示を行っていた時本当の姿が見えた。岩手県のようにすぐ送って頂けるところ、持参して頂けるところ、すぐ側なのになかなか送って頂けないところ、送ってやってやると言う態度のところ、様々である。どことも積極的な観光の振興と名を打ち出しているのにである。観光ポスターは地域の役所内に掲示し事足りるのではない。管外に掲示してなんぼのものだということだ。気を付けた方が良い。真剣に取り組んでいるものにとっては真実が透けて見える。
それと、宇和島の素晴らしい姿が知られていない。この面白い一筋縄では行かない地域を多くの皆さんにも知って頂きたいと言う気持ちも強かった。それで、井野課長補佐、片岡係長を責任者に、ポスター制作の実質的責任者を松山大学で写真部の経験のあるG主事にお願いした。まだ、現地対策本部が置かれていていないのでボランテイアである。山崎(旧姓大平)秘書と兵頭主事(現南予地方局管理課主査)には局内の女性の方々に働きかけて頂きたいとお願いした。この後山崎秘書と兵頭主事は様々な取り組みで女性の方々のとりまとめに尽力を頂くことになる。そして局内の有志の方々が休日にボランテイアで一ヶ月をかけ2000枚の写真を撮影し完成させた。作成の過程ではG主事には妥協しないだめ押しをした。成功しないとみんなの全ての苦労が水の泡になるからだ。彼は苦労の末完成する。
この手作りのポスターは評判となり、マスコミにも取り上げられた。ただ、掲示頂けなければ自己満足で終わる。お願いに回ったところ、JA南林組合長さん(当時)は額に入れて頂きJA南本館の一階エレベーターの乗り口上部の一番見やすいところに、清水愛媛銀行支店長さん(当時)は銀行の立派なガラス掲示板の中に掲示していただいた。松山市には松本坂の上の雲担当部長(当時、現坂の上の雲ミュウージアム副館長)にお願いした。電話があり「松山城ロープエイ乗り場に掲示しておきました。一年間無料で掲示します。」とのことなので、松山に帰った際に確認に行ったったところ、思いもかけずライトに照らされた素晴らしい展示場でそのなかで存在感を示していた。このポスターは職員の方々の汗の結晶の賜なのでスタート地点でのこの3人の方々の宝物のような扱いには心から感謝した。自信がつくとともに今後行う予定の様々な0予算事業の大きな弾みとなった。無から有を生み出す時瞬間かいま見える芽生え、その時に成功へのイメージがはっきりと浮かぶ。休日返上で取り組んで頂いた方々に報えたかなと思いほっとした。
じゃこ天カーニバル準備中に実はこれも0予算であるが南予観光物産キャラバン隊を組織し、県庁で加戸知事にお願いし県下の地方局、各市を訪問し物産を持ってPRした。これは、井伊産経部長さん(当時、後南レク社長)に中心となって頂き実現したものだが、宇和島市、愛南町、鬼北町、松野町、JA南、宇和島蒲鉾組合が一緒になって行動した。この地域で各団体がまとまって行動したのは初めてでないかと思う。
JA林組合長、島原宇和島市蒲鉾組合理事長、鬼北町入舩課長、愛南町中村室長、松野町友岡係長(各当時)が、キジの焼き鳥、じゃこ天の揚げ方、鰹のたたきの造りなどの時間を計りながらのリハーサルは楽しい思い出だがひとかたならぬ尽力を頂いた。また、我が井野課長補佐、片岡係長がともに行動したのは言うまでもない。
そしてこのときに、この手作りポスターを訪問先に持参した。
なによりもこのポスター制作事業で大きな宝物を得れたことは嬉しかった。行動出来る人材がまた生まれたのだ。
その後、これらの方々が中心となってJR四国へ乗車しての宇和島観光入り込み調査、和霊祭りでのガイヤ、じゃこ天踊り、伊予銀行合唱団発表会でのじゃこ天の歌合唱、山内係長(当時現御荘林業課副参事)が中心となった南予アルプスパンフレット作成、清水管理課長さん(当時)の広見川、四万十川環境調査、井東県民生活課長さん(当時)の辰野川清掃隊の編成へとなり局内の行動力ある人材の確保へとつながって行く。
そして翌年の正月開けの部長、地方局長会議で加戸前知事の前で新年の夢を語ることとなる。

G主事が中心となって作成した手作りポスター、新宇和島伝説「四国・宇和島」の言葉は宇和島市役所神應観光課長(当時、後産業経済部長、現南予文化会館館長、作家として活躍されている)の作。
この言葉が全てを表している。

南予観光物産キャラバン隊、高須賀東温市長さん(現市長会長)を囲んで。訪問先々で歓待をうけた。この事業も1ヶ月余りで実施。行動力のあるメンバーが揃えば事さえ決まると実行は早い。出来ない理論で無く成功のみに集中し行動出来るからだ。
(つづく)
部長、地方局長会議に入る前にもう一つ若い方にお世話になった話。
私の県庁時代で最も苦しかった事はと言えば、保健福祉の統合、保健所の再編であろう。人事異動し業務に就いた時これは大変だなと思った。
組織は多分直前まで固まらないだろうし、様々な要求にリアルタイムで応えなければならなくなる場面も出てくるだろう。また、700人余りの方々を全く新たな組織だから一人一人全員を貼り付けなければならない。医師、看護婦、獣医師など多種にわたる。経験別、出身地別など気の遠くなる配慮をしなければならない。それと組織名、課名、係名も新しい名称だ。通常は組織はある程度固定し異動者は約3割が普通だ。当時人事異動の業務は札を使って行っていた。700名も札を動かしての作業は不可能だ。それでこれに対応出来るのはパソコンソフトイクセルのソート機能を使用することしかないと決心した。幸いなことに当時からセル内にななめ罫線が引けるようになっていた。パソコンを使い出したのは生涯学習課の時からだ。パソコンも自作していた。パソコンョップではまだお宅みたいな高校生ばかりの時代である。それでとりあえず準備としてイクセルに一人ひとり人事に必要な事柄を別室で打ち込むことに取りかかった。それも本を片手に使用書を見ながらだ。当時県庁はまだワープロの時代であるのでこれに対応するためワープロに変換できる高価な変換ソフトも私費で購入した。また、当時のWINDOWS95と100メガバイト搭載のノートパソコンでは非力で良くフリーズをさせられた。それで自作パソコンにはソフトをWINOWSNTに搭載メモリを最大限にした。いずれも私費でこれも当時は高価であった。試行錯誤しながら業務を進めていた11月頃降ってわいたように保健福祉の統合の話が持ち上がってきた。保健所の再編これに手一杯なのにさらに対応事項が増え当初のスケジュールが大幅に狂ってきた。技術職の人事は公営企業局、農林水産。福祉、環境局に渡る、その窓口も私がするようになった。正月は9連休だったがそんなものは記憶にない、目が覚めると仕事を始めた。1月に入ると他部局からは出来たのだが保健部はまだかとの催促がくるようになった。周りはこの状況を理解していない人がほとんどだった、経験者ほど人事は3割程度の異動で終わると認識しているのでのでなぜまだ出来ないのか、といぶかしんでいた節がある。組織名から、人の異動先まで全て新たに作成しなければならない、前年度の資料は全く使えないのだ。それと15人の新松山保健所への異動者を募らなければならない。それも県職員の身分を離れ異動する方もいる。私に説得を任されていた。これが出来なければ人事案は出来上がらない。秘密裏にお願いしながらの併行作業であった。全く状況が異なるのだ。
パソコンで打ち、リッチテキストコンバーターでワープロに転換し、人事課に通う日々が始まる。この窓口になって頂いたのが若い担当者である。
この若い担当者は私が作成した原案を朝持参するとチェックをしてくれる。イクセルのセルは小さい、50歳になった私は老眼であり、自分が打ち込んだ字がよく見えないこともある、また保存を忘れたり、ソート機能ボタンを押し間違えかなりのミスがある。一人異動を変えると玉突き的に他も変えなければならない。彼はそれを念入りに根気よくいやな顔もせずチェックをするということを来る日も来る日も続けた。実は仕事は作るよりもチェックにエネルギーがいる。心から感謝した。内示日は迫る。私の心は時とすると折れそうになった。そのとき常に唱えたのが「己こそ己のよるべ、己をおきて誰によるべぞ、良く整えし己こそ誠得難きよるべなり。」少林寺拳法のだるまの教えとI君の常に先頭に立って行動する姿だ。そして自分をひたすら信じ己を取り戻した。ついに3月も入ったある日15人の方々の松山市異動の了解を頂いた。未知の世界に飛び込むこれらの方々の決心に比べれば私の苦労など何ほどの事でもない。私は15人の方々とお話するときある制限を若い担当者から言われていた。しかし、これは到底飲める条件ではない。腹をくくって条件を破った。終えた時彼は笑いながら電話で言った「あれを言ったでしょう。」彼は私のすることを知っていたのだ。出来上がったのは人事の内示日2週間前であったと思う。私は晴れ晴れとした顔で9ヶ月ぶりに個室となっていた部屋を出た。しかし、あることにこれを書きながら気づいた。若い担当者はなぜ私がパソコンを使いながらの人事につきあってくれたのか、それは人事課自体にも言える。まだ県庁では人事にパソコンなど使っておらず所定の業務推進方法ではない全く新たな取り組みだ。海のものとも山のものとも分かっていない、内示日までに完成しなければ人事課、担当者自身も責任を問われる。そもそもなぜ私をあのポストに就けたのだろう。実に私は悪筆で事務に堪能とはとても言えない。でも、結果的には成し遂げた。私は長い県庁生活で人事の希望を書いたのは2度しかない。新採時の県庁への希望と当時大きな権限を持っていた秘書広報課から市町村課への希望だ。秘書広報課の経験は実は後で述べるがじゃこ天カーニバルでは大いに役立った。ここでも皇太子殿下、妃殿下のお泊まりになられる55総体のふなやでの記者発表担当など新たな経験を次々と積ませてせて頂いた。しかしどう考えても若い私の実力以上の権限を持たせて頂いている。このままではだめになるかも知れないと感じていた。秘書広報課がいやで希望を出したのでは絶対ない。K課長が奔走し希望を実現させて頂いた。しかし後から聞かされた話では四之宮になぜあのような事を書かせたのかと若い私ごときのために数人の方々がしかられたと聞かされた。信じられない話だが。
私は異動の希望を書かなかった。しかし人間だからもうそろそろ異動かなと思うことはあったが、人事は常に私の予想外のところを示された。常に新しい分野であったが結果的にはスキルアップした。環境衛生係長では私の頭でっかちに気づかされ、八幡浜中央保健所勤務では地方局の実態を知った。それまでの2度の地方局勤務は総務税務課、総務調整課と権限の中枢機関だ。分かっているつもりでもそうではなかった。この八幡浜地方局勤務でもう一度地方局勤務になればこうしたいとの考えが生まれた。これが、結果的にはじゃこ天カーニバルに繋がることとなった。一体人事はどのようにするのか、私以上に私のことが見えている。宇和島地方局勤務は一度も勤務経験の無い私にとっては思いもかけないポストだったが私の最後の県庁生活に最もふさわしい満足のいく場所となった。宇和島以外では今まで培った全ての力を発揮出来なかったと思う。ありがたいことに定年後今になっても多くの市民の方々が一風変わった私とお付き合いを頂いている。
実は清家会長を囲む会でお会いした時、石橋宇和島市長さんにはじゃこ天カーニバルについて本音のもう少し踏み込んだお願いをした。しかし、お願いしたとしか書かなかった。市長さんの行動をしばる恐れがあったからだ。また実はの話になるがじゃこ天カーニバルが始まる時、市長さんに偶然お会いしお礼を述べた。そしていよいよカーニバルが始まってあることに気が付いて感激をした。それがじゃや天カーニバルの生い立ちをもう書いても差し支えないと思う原因となった。それがなぜかはまだ書かない。このことが第1回じゃこ天カーニバルが開催されるまでの結論となるからだ。
(つづく)
振り返っていると次から次えと窮地を救って頂いた方々を思い出す。私は悪筆なので代筆をお願いしなければならない。麓寿隆さんには大変お世話になった。生活衛生係長の時代である。私の前に座っていた彼は事務能力が極めて高いし、字もうまい。知事祝辞を書くことが多かったので最後の仕上げとして書が出来る方にお願いしなければならない。言うならば私はお願いの歴史ともいえる。彼は私が次々と代筆をお願いするのを特にいやな顔もせず即座に仕上げて頂いた。四面楚歌に落いっていた時なので本当にありがたく、心から感謝した。また、麓さんが東京事務所勤務の時、訪ね、じゃこ天の歌を東京物産店で放送するようお願いした。彼には足をむけては寝ることが出来ない。晩婚であったが奥様と仲むつまじく生活を送られているとお聞きしている。
実は、県庁生活で私の悪筆をずっと支えて頂いたのは22条の女性職員の方々である。誰の配慮か知らないがありがたいことに必ず側に書のうまい方々を配置していただいていた。それで22条の職員の方々にはずっと感謝の念を持っていた。言っているように南予の女性は実に様々な習い事をしており、多様なことが出来る人が多い。この力を借りたいと思った。井野課長補佐、片岡係長、G主事ばかりではない。これらの22条職員の方々には様々なお願いをし、南予地域活性化のために目を見張るばかりの活躍をしていただくこととなる。
年頭の地方部局長会議、知事、副知事の面前で各部局、地方局の抱負を述べる場所でもある。私は目標とはあくまでも具体的でかつ実現可能なものでなければならないと思っていた。また、喫緊の地方局の課題は柔軟に行動できる職員の醸成と思っていた。国、本庁がどんなに徹夜して苦労し予算が出来上がっても、当たり前の話だが、それを実行するのは、第一線の地方局、市町の個々の職員の方々である。個々の第一線の職員の意識が高くなく形式的な使い方をすれば、高邁な予算も絵に描いたぼた餅となる。これに気づいたのは八幡浜地方局の時だ。あれほど死にものぐるいでした組織改革だが赴任した時にある違和感を感じる。その答えが多分今市町村合併の功罪が問われているが、その答えではないかと思う。ここではそれは述べない。
そして私は、年頭の目標として100名の職員のガイヤカーニバルの参加と述べた。100人の行動出来る職員を創り上げるのだ。市民の皆さんの前で、目に見える形で元気な地方局の姿を見ていただくのだ。加戸知事はにこにこしながら、聞いて頂いた。吉野内副知事さんは、また変わったことを言っているなと言う顔付きで、にやにやしながら聞いて頂いた。このお二人の方のことはこれ以上ここでは述べない。石橋宇和島市長さんとの最後の結論の話となる。
ガイヤ踊り、実にハードで音楽も素晴らしい。しかしこれを、みんなであわせて踊るのは難しい。踊りの上手な方がおどれば迫力満点なのだが。どうかしようと考えた。高知のよさこい踊りはゆったりとしてダイナミッックでメジャーな踊りになっている。よし、ここは四万十ルート、足摺ルートの連携も含め高知県庁と訪ねようとなった。そして井野課長補佐とともに高知県庁に浜口観光部長(当時)を訪ね、連携をお願いするとともによさこいの踊りに関して、お聞きした。そして帰りにDVDを借りた。それを見ながら気づいた。人のルールで動くからだめなのだ。自らのルールで動けば良いのだ。つまり踊りの振り付けを踊りやすいようにアレンジすれば良いのだ。そして直ちに現在はY主事(当時)と結婚されている22条の女性職員Eさんに来て頂いた。そしてお願いした。「加戸知事さんと約束をした、今年のガイヤカーニバルは100人が参加する。よさこいのようにしたい。踊りを作って頂きたい。しかし易しすぎても迫力がなくなる、練習期間がいるから3月末までには完成してほしい。」と話しDVDを渡した。彼女は4人の22条の仲間集め3月末の完成に向けて邁進していただくこととなる。

左端 浜口高知県観光部長(当時)
(つづく)
3月末となったある日秘書の山内(旧姓芝)さん(じゃこ天の歌の楽譜を友人に依頼して頂いた女性、たすきを作って頂いた大平さんは結婚のため退職、それまで地方局の女性の方々を本当にまとめて頂いた。)が「ガイヤの踊りが完成したそうです。」と報告を頂いた。待ちに待っていた私は直ちに4人の方々に来ていただくように伝えた。ソファに腰掛けた4人の方々はおもむろにA4の図面を取り出した。驚いたことにそこには克明な手書きのイラストの踊りが図示されていた。4人の方々の説明が終わるのを見計らって山内さんが「4人が披露するそうです。」と話を引き取った。
そして4人の方々は踊り始めた、リズム感があり、ダイナミックですんぷの狂いもなく4人の息が合っている。
「ヤア」とのかけ声で最後を決めた。私は感動の余り身震いをした。これはいけるぞと心から思った。4人の方々に「ありがとう。」と感謝の念を伝えた。そして井野課長補佐と片岡係長に早急に100人を募り例年より早く練習に取りかかるように伝えた。井野課長補佐と片岡係長は苦労したらしい。最初は様々な人々からなっているためやる気が揃わずばらばらだったらしい。私は任せた事には余り口を挟まない。ただ、途中で一度だけ余りの盛り上がりのなさに壇上で喝を入れたことがある。長い練習期間を経てガイヤカーニバルの日となった。講堂で井伊産経部長さんの参列のもと出発式を行った。そして地方局の前で100人が踊りを披露した。見事に決まりこれからの出陣を控え昂揚感が高まって来た。長いきさいやロードで踊りが始まった。踊りの振り付けをしていただいた4人を先頭に踊り続けた。見事に決まった。夢中でみんなが踊り続けた。存在感を示しそして終わった。100人は満足感に溢れ喜びあった。
快い疲れの中宿舎に帰る途中楠葉さんに出会った。「素晴らしい出来良かったですね。」とお祝いの言葉を頂いた。
その後でつぶやいた。「地方局でもやれるんやなあ。」と、これは私には最高の誉め言葉に聞こえた。よし、地方局に100人の侍が揃ったぞ。



100人が参加し、(ガイヤ ガイヤ エブリボデイ ダンシング ゴーイング オン ザ ロード) ガイヤ、ガイヤの軽快なリズムに乗せてパフォーマンス。手作りの踊りで大いに存在感を示しました。

100人が参加し、(ガイヤ ガイヤ エブリボデイ ダンシング ゴーイング オン ザ ロード) ガイヤ、ガイヤの軽快なリズムに乗せてパフォーマンス。手作りの踊りで大いに存在感を示しました。

100人が参加し、(ガイヤ ガイヤ エブリボデイ ダンシング ゴーイング オン ザ ロード) ガイヤ、ガイヤの軽快なリズムに乗せてパフォーマンス。手作りの踊りで大いに存在感を示しました。

100人が参加し、(ガイヤ ガイヤ エブリボデイ ダンシング ゴーイング オン ザ ロード) ガイヤ、ガイヤの軽快なリズムに乗せてパフォーマンス。手作りの踊りで大いに存在感を示しました。

100人が参加し、(ガイヤ ガイヤ エブリボデイ ダンシング ゴーイング オン ザ ロード) ガイヤ、ガイヤの軽快なリズムに乗せてパフォーマンス。手作りの踊りで大いに存在感を示しました。

この方々の熱い熱意によって手作りのガイヤ踊はついに完成を見ました。
